2012年2月16日木曜日

「3・11」は後近代のはじまり。いまこそ,新しい学としての「スポーツ学(Sportology)」を立ち上げよう。

「3・11」を通過したいま,わたしたちは,それ以前とはまったく異なる社会を生きることを余儀なくされている。しかも,その社会は人類がはじめて経験する未知のものだ。いま,わたしたちが生きているこの社会は,眼にみえない放射性物質なるものに日々怯えながら,いかにして「折り合い」をつけ,生き延びていけばいいのか,その方途すら見出せないままの暗中模索の社会なのだ。

それが日本という国で起きたのだ。ヒロシマ・ナガサキを経験した被爆国である日本が,一転して,こんどは世界を放射性物質で汚染する国となったのだ。しかも,原子力に関する科学技術という点では世界のトップレベルにあるとされた日本が・・・。その幻想はもろくも崩れさり,放射性物質による反撃を受け,それに対応する決め手もないまま,浮遊するという体たらくである。これから,5万年とも,10万年ともいわれる気の遠くなるような長期間にわたって(これは天文学的な時間だ),放射性物質との「折り合い」のつけ方が求められることになってしまった。

世界はいま,日本を,放射性物質汚染実験国家として,息をひそめて注視している。にもかかわらず,わたしたちはいま,なにも手出しもできないまま,「3・11」以前の日常性にもどろうとしている。それが,さも,復興への道であるかのように。

それは違うだろう。もはや,どう逆立ちしたところで「3・11」以前の社会にもどることはできないのだ。いまも拡散しつつある放射性物質を完全にコントロールできるのであれば,ともかくも,まったく手も足も出せない現状にあっては(一説によれば,放射性物質を制御することは永久に不可能だ,とも聞く),ただ,ひたすら耐えるだけだ。となれば,もう,これ以上の放射性物質を拡散させない方途を見出すことに全力を挙げるしかないではないか。

こういう社会は,ヨーロッパ近代が求めたような,つまり,人間の理性に絶大なる信をおき,自由競争による予定調和をめざした社会とは,もはや,まったく異質なものだ。つまり,近代論理の破綻だ。だとしたら,この近代論理を超克するための新しい論理を構築する方向へと舵を切る必要がある。その中核にある概念のひとつは「自由競争原理」だ。わけても「過剰に」機能しはじめた「競争原理」だ。もっと端的に言ってしまえば,世界経済を支配している「競争原理」だ。

経済の国際競争に乗り遅れてはならない,というお題目に怯えながら,わたしたちは,いつのまにか「カネ」の亡者になってしまった。原発推進もまた,その延長線上にあった。こちらには,「科学」とうものに対する絶大な信があった。「科学信仰」と呼んでもいいほどに,わたしたちは「科学的に正しい」ということばに酔った。しかし,その「科学」も大自然の災害には及ぶべくもなく,フクシマの原発事故を引き起こしてしまった。

その恐るべき現実を目の当たりにして,茫然自失,それがこんにちのわたしたちのありのままの姿だ。なんとも情けないことではあるが。

このように現状を認識するかぎりにおいて,わたしは,以前から提案してきた理論仮説としての「後近代」という概念が,いよいよ実態をもつにいたった,と考えている。つまり,「3・11」以後は,明らかに「近代」という時代を通過して,「後近代」という時代に突入したのだ,と。つまり,近代の論理が破綻をきたし,それに代わるべき新たな論理を構築し,そちらに向って舵を切る以外に「復興」への道はない,と考えている。

かつて,わたしは『スポーツの後近代』(三省堂出版)という著書をとおして,スポーツ史という視座に立つ「スポーツの後近代」というものを考え,問題を提起したことがある。しかし,それはあくまでも理論仮説としての「後近代」であった。しかし,「3・11」を通過したいま,実態としての「後近代」がはじまった,と考えている。

スポーツの近代は,あらためて指摘するまでもなく,「競争原理」にもどづくスポーツ文化の統廃合をくり返した時代であった。その結果,「優勝劣敗主義」を生み,「勝利至上主義」を導き出し,ついには「スポーツ科学」信仰にまで到達した。その結果,近代スポーツ競技は「ドーピング」問題という病理現象をもたらすこととなった。

こうした歩みは資本主義経済と表裏をなしていた,とわたしは考えている。詳しいことは割愛するが,たとえば,フリードマンの新自由主義にもとづく経済革命(市場原理,など)は,まさにその頂点に立つものと考えてよいだろう(『ショック・ドクトリン』参照)。

近代スポーツ競技の世界でおきているさまざまな,摩訶不思議な現実を目の当たりにして,わたしは『スポーツ科学からスポーツ学へ』(藤井英嘉氏と共著,叢文社,2006年)という著作を世に問うた。その主眼は,「スポーツ科学」という隘路から抜け出し,それに取って代わるべき新たな学としての「スポーツ学」を提唱することにあった。しかし,時代がまだ早すぎたというべきか,いまもなお,ないがしろにされたままである。

いま,「3・11」を通過して,「後近代」という時代の幕が切って落とされた,というわたしの時代認識に立てば,いま,まさに,「スポーツ科学」万能の時代を脱して,生身の人間にとって,あるいは,「いま」という時代を生きる人間にとって「スポーツとはなにか」と問う学,すなわち,「スポーツ学」(Sportology)を立ち上げるべきときだ,とわたしは考える。そして,声を大にして,「スポーツ学」を提唱したい。

では,「スポーツ学」(Sportology)とはなにか。この問いについての応答は,稿をあらためて,書いてみたいと思う。とりあえず,今回はここまで。

1 件のコメント:

竹村匡弥 さんのコメント...

kappacoolazyだにぉ
しぇんしぇい、おひさしぶりだに。

みんな・・・忘れつつ、あるだにぃ
しょうがない・・・と思いつつ、あるだにぃ

「科学的に正しい」と思う、そのとき、ある種の信仰が始まっているんだにぃ。。。科学は宗教だにぉ

ぼくは、手塚治虫より水木しげるが好きだにぃ