2011年12月15日木曜日

日本余暇学会の講演原稿(近代スポーツ競技と原発は一心同体?)にとりかかろう。

10月に依頼されていた原稿がいまだに書けないままになっている。12月20日が締め切り日。原稿というものは不思議なもので,締め切り日が近づいてこないとエンジンがかからない。今日はすでに15日。のんびり屋のわたしも,ようやく焦りはじめている。さあ,これからだ。

でも,今日の夜は「けんちく体操ナイト」というイベントがあって,そのトークの部に参加することになっている。となると,どことなく「けんちく体操」の方に頭が向かっていて,落ち着かない。今日は原稿には手がつけられない。明日も夜に,ちょっと重要なミーティングがある。こうなると,今日・明日と二日は駄目だ。19日からは,神戸市外国語大学の集中講義に出発。ということは,17日・18日の二日しかもう残りはない。

今日はとりあえず,原稿の骨子だけでも固めておこう。原稿の内容は,10月9日に日本余暇学会で行った講演をまとめる,というもの。しかも,20枚(400字)程度で,という。これもちょっと中途半端なボリュームなので,そこがネックになっている。つまり,50枚くらいだと,かなり前から気合を入れて準備に入るのだが,20枚くらいだったら気分が乗ればすぐに書ける,という甘えがわたしのなかにある。そこが落とし穴だ。

でも,もはや待ったなしだ。すぐにも取りかからなくてはいけない。
そこで,少しだけ準備に入ることにした。

10月に行った講演のタイトルは「『3・11』後の日本人の生活とスポーツ文化の行方」──「公」と「私」のまじわる場所で,というものだった。これはかなり念入りに準備をして,資料も提出して臨んだのだが,結果は支離滅裂の話になってしまい,消化不良をさらけ出したような,恥ずかしいものになってしまった。しかも,時間切れで,落しどころまでたどりつくこともできないまま,話の途中でプツンと終るという情けない結末だった。

1時間30分という講演時間に対して,内容をてんこ盛りにしすぎたのだ。だから,これを思いっきり無駄なところを削って,核心部分だけを抽出する必要がある。20枚の原稿というのはそういうものだ。こちらの方の手加減はいくらか心得がある。しかも,一度書いたものを修正することもできる。しかし,講演はライブなのでそうはいかない。一度,方向を間違えると,とんでもない方向に暴走をはじめてしまう。そうなると,もはや,引き戻すことができなくなってしまう。日本余暇学会では,そういうことが起きてしまった。残念。

だから,原稿の方でなんとか汚名を挽回しなくてはならない。折角,学会誌に掲載してくださるというのだから,ここは,なにがなんでも頑張らなくてはならない。少なくとも,活字にして残すだけの価値のある内容にまとめなくては・・・・。

そこで,まずは,タイトルも少しだけ工夫を加え,書きやすくしようか,と考えている。
たとえば,「『3・11』以後の日本人のライフスタイルとスポーツ文化の行方」──「公」と「私」のまじわる場所で,という具合に。そして,とりわけ,「3・11」以前までのわたしたちのライフスタイルをふり返り,どこに問題があったのかを明確にすること,同時に,「3・11」以前までのスポーツ文化とはなにであったのか,その問題点を浮き彫りにすること,その上で「公」と「私」の問題を考えてみよう,といまのところは考えている。

なかでも,ライフスタイルの問題点としては,あまりに電力に依存しすぎる,わたしたちの「甘え」の構造をしっかりチェックすること,しかも,「過剰」ともいえる家電製品に取り囲まれた安穏なライフスタイルはここ30年足らずのうちに起きた,きわめて特異な現象であること,だから,もう少し手間隙がかかっても質素な生き方を選択すべきところにきているのではないか,と。「ものの豊かさ」の追求から「こころの豊かさ」に舵を切る絶好のチャンスではないか,と。

スポーツ文化については,少しラディカルに問題提起をしてみようと思う。
素朴で長閑な,祝祭的な時空間のなかで展開していた「スポーツ的なるもの」が,近代に入って急速にルールや組織が整備されて,いわゆる「近代スポーツ」としての体裁を整える。そして,このルールのなかでの「競争原理」が推奨され,「優勝劣敗主義」を錦の御旗に仕立て上げ,近代国民国家を支える優れた国民教育に利用されたばかりでなく,植民地政策の尖兵として「近代スポーツ」は予想をはるかに超える大きな役割をはたしたのではないか,と。そして,このロジックは,もののみごとに「資本主義」と歩調を合わせ,みるみるうちに世界に浸透していくことになった,と。

言ってみれば,オリンピックやワールドカップなどは,欧米のスポーツ文化による「世界制覇」をなし遂げた典型例ではないか。この流れは,まさに,「資本主義」による「世界制覇」と表裏の関係にあった,と考えることができよう。

つまり,競争原理,優勝劣敗主義,効率主義,経済原則・・・等々はみんな同じ腹から生まれた兄弟なのではないのか。だとすれば,近代スポーツ競技をささえ,それを過剰な競争原理の世界に導いていき,アスリートたちの身体がぼろぼろになるまで追い込まれていくロジックと,「いのち」の保障もできないまま原発導入に突っ走っていくロジックとは瓜二つではないか,と。

ここまで追い込むことができれば,ここにこそ「公」と「私」の交わる典型的な「場所」を見届けることができるのではないか・・・・とわたしは考えるのだが・・・・。スポーツはだれのためのものなのか,そして,原発はだれのためのものなのか,と。

そして,ここまで考えてくると,「公」と「私」という近代が生み出した二項対立的な思考方法そのものが,すでに限界にきているのではないか,ということが新たに浮かび上がってくる。つまり,「3・11」は,近代が生み出した思考方法や,それによって構築された制度,組織,法律・・・等々にいたるまでの諸矛盾を一気に露呈させてしまった,というべきではないのか。だとしたら,わたしが『スポーツの後近代』(三省堂)でも提起してきたように,時代そのものが「近代」から「後近代」へと転換せざるを得ない情況が,こんどの「3・11」によって,わたしたちの眼前に提示されたと,わたしは考えたい。

さて,これだけの内容のものを,20枚で書く,それだけの力量がわたしにあるかどうか。でも,折角のチャンスなのでチャレンジをしてみたいと思う。

バタイユは『宗教の理論』の「緒言」で,繰り返し述べているように,このテクストは「素描」(エスキス)である,と。運動性の豊かな思想・哲学は,たえず流動的で,つぎつぎに進化していくものであって,最終的な結論などというものはありえない。だから,「素描」をすることが必要なのだ,と。つまり,断言してしまうことによって,その思想・哲学は歩みを止めてしまう。そうではなくて,「未完了」や「不可能性」の思想・哲学に挑むには「素描」(エスキス)がもっとも有効なのだ,ということを説いている。

このバタイユの言説に勇気をもらって,わたしもささやかな,ほんとうに,ささやかな「素描」を試みてみることにしよう。12月19日の朝までには,原稿が仕上がりますように。

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