2012年1月9日月曜日

国技館から日本人力士の優勝額が消えた。グローバル化の必然か。

日本の伝統スポーツのひとつ,大相撲がグローバル化するとどうなるのか。この問題については,ながい間,考えつづけてきたつもり。そして,その結果が徐々に現実になって現れつつあることは,みなさんもご承知のとおり。そのうちのもっとも顕著な例は,優勝杯が,2006年初場所を制した元大関栃東(現玉ノ井親方)を最後に,外国出身の力士たちに独占されてしまっている,という事実だろう。情けない話ではあるが,これがありのままの大相撲のこんにちの姿のひとつだ。

8日(日)に初日を迎えた大相撲初場所。その会場である両国国技館には32枚の優勝額が飾られている。そこから日本人力士の優勝額が,とうとう0(ゼロ)になってしまった。そう,2006年に優勝を飾った栃東の優勝額がはずされ,新しい優勝額がそれに代わったからだ。32場所の間,日本人力士はひとりも優勝していないのである。こんな時代がくるとは,いったい,だれが予測しただろうか。でも,これが日本の伝統スポーツをグローバル化した結果の,ひとつの現実なのである。

この初場所から国技館に飾られている優勝額は,モンゴル出身の横綱白鵬が20枚,元横綱朝青龍が9枚,大関日馬富士が2枚,ブルガリア出身の大関琴欧州が1枚。ご承知のとおり,モンゴル出身の力士だけで31枚,残りの1枚はブルガリア出身の琴欧州のもの。

かつて,ハワイ出身の力士たちが大活躍した時代がある。かれらは,その巨体を生かして,馬力で勝負していた。だから,日本人力士もそこそこに対応することができた。若乃花や舞の海のような小兵でも,そのスピードとワザで対応することができた。しかし,モンゴル出身の力士たちは,そうはいかない。みごとに鍛えられた体躯は,スピードもワザも申し分なく,じつによくバランスがとれていて,いうことなしである。そこに,気力が加わる。朝青龍や白鵬の燃え上がるような闘魂は,いまの日本人力士に欠落しているものだ。

こののち,たとえば,白鵬と互角に闘える力士が,いつ,登場するかが注目の的となっている。その筆頭が,琴奨菊であり,稀勢の里であろう。大関に昇進して,いま,もっとも勢いに乗っている力士たちだ。かれらが,どこまで力をつけていくことができるのか,これもまた今場所の楽しみのひとつではある。

さて,大相撲という伝統スポーツのグローバル化については,なにも優勝回数を数えるだけでは,問題の本質は明らかにはならないだろう。しかも,大相撲の場合には,現段階では,特殊な条件(制約)もいくつもある。

たとえば,柔道のグローバル化と比較してみるとわかりやすい。柔道は,オリンピックの正式な競技種目に加えてもらうために,さまざまな努力をして,世界に普及・拡大して行った。そして,多くの支持もえて,その目的は達成された。しかし,そのことによって,柔道はJUDOに変化・変容してしまった(このあたりの説明は省略)。もはや,JUDOは柔道ではない,とさえ言われるようになった。つまり,別の競技種目が誕生したというのである。

それに引き換え,大相撲は,まったく事情が違う。まずは,大相撲を世界に輸出しようとは考えていない。あくまでも「国技」という枠組みを死守しようとしている(ように見える)。したがって,厳密な意味でのグローバル化とは異なる。ただ,力士になるための入門希望者の門戸を世界に開いている,というだけだ。そして,伝統の様式やマナーもこれまでどおり守っていこうというのである。にもかかわらず,眼にみえる優勝額に限らず,眼にみえないところでの変化・変容も,少なからず起きている。

新しい血が混ざれば,必ず,なにがしかの変化は起こる。たとえ,古い革袋のままとはいえ,新しい血はそれなりの働きをする。その実態は,きちんとした調査が必要だが,ある程度までは想像することは可能だ。もちろん,それらは「研究仮説」にとどまるのだが。

そんな眼で,ことしの初場所を楽しむのも一興かと思う。なにも,勝った,負けた,だけが大相撲の楽しみ方ではないのだから。土俵の上での一挙手・一投足のひとつひとつにも,いろいろの意味を読み取ることはできる。そうしたトータルな力士の所作の向こうに透けてみえてくるものはなにか。それを,わたしは大相撲のグローバル化という観点から楽しんでみようと思っている。

自己を超えでるような新しい期待の力士の誕生を,わたしは心待ちにしている。

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