2013年1月13日日曜日

「体罰」ということばについて。大阪体育大学大学院の授業で議論。

 1月11日(金)午後4時20分から午後5時50分まで,大阪体育大学大学院の授業を1コマ,担当させていただきました。いわゆるオムニバス方式の授業で,いろいろの専門の先生方が交代で担当し,毎回,違う内容の授業が展開されます。そのうちのひとつをわたしが担当したという次第です。テーマは「ロンドン・オリンピック後のスポーツについて考える」。

 まずは,ロンドン・オリンピックをどのように総括するかという話からはじめ,いま話題の東京オリンピック招致運動の話へと流れていきました。そして,現代のスポーツの問題を考えるためのキー・ワードとして「メディア・スポーツ複合体」(今福龍太)をとりあげました。なぜなら,わたしたちがなじんできた近代スポーツ競技とはいささか性格の異なる新たなスポーツ文化が生まれつつある,という認識がわたしにあったからです。つまり,ロンドン・オリンピックもふくめて,わたしたちが体験してきたスポーツとは次元の異なるスポーツ文化が,いま,まさに,誕生しつつある,というわけです。もっと言ってしまえば,メディアが生み出す(あるいは,製造加工し,物語化する)スポーツ文化ということです。

 こんな話をしているうちに,メディアが流すスポーツ情報については相当に注意をしていないといけない,という話になりました。そうこうしているうちに,自然に,いま話題の桜宮高校のバスケットボール部の「事件」の話になりました。橋下市長は「事案」と言っていますが,わたしは若い高校生の「命」を奪うことになった,これは「事件」だという話をしました。そして,この種の「事件」は氷山の一角にすぎないこと,しかも,その報道の仕方はスポーツの世界にかぎらず,原発に関する報道もふくめて,あらゆる分野で起きている重大な病根の一種なのだ,という指摘をしました。そうして,数日前にこのブログで書いたものを資料として配布しました。

 こんなような話をしたあと,出席した院生さんたちから,ひとことずつ意見や質問を受けることにしました。その内容がとても面白く,ほんとうは全部,ここに紹介したいところですが,ひとつだけに絞り込みます。

 それは,「体罰」ということばをめぐる議論です。

 ある院生(女性)さんが,つぎのような発言をしたのがきっかけとなり,大いに盛り上がりました。
 「わたしはバスケットボールをやっていて,高校時代にも相当に厳しい指導を受けてきました。もちろん,体罰も受けました。そして,ときにはムカッとくることもありました。でも,その先生を信じることができたので,我慢しました。その経験は,いまふりかえってみても,とてもよかったと思っています。ですから,こんどの報道を聞いていて,わたしは指導者である顧問の先生に同情的です。あの報道のされ方には問題があると思っています。取材した側の一方的な報道だけが流されて,しかも世論を煽るようにして非難の渦を巻き起こしています。あれだけの伝統を築いてきた先生ですから,もっと,愛情の籠もった体罰であったはずです。」

 わたしの記憶違いがあったら訂正しますが,概ね,こういう内容だったと思います。そこで,わたしは,とても貴重な意見だと思いましたので,きちんと議論するためのベースをつくる必要があると考え,「体罰」ということばの概念を明確にしておきましょう,と提案。そうしないと「体罰」の意味が,メディアが用いる場合や,わたしたちが用いる場合にも,それぞれ個々人によって違っていたら,議論はスレ違ってしまいます。しかも,そういう議論は疲れるだけで,不毛です。そこで,つぎのような話をしました。

 わたしは「体罰」ということばが嫌いです。なぜなら,メディアが用いている体罰ということばの概念がじつにあいまいなものでしかないし,場合によってはメディアの責任逃れの用語になっているようにも思うし,単にポビュリズムに迎合している用い方にもみえるからです。さらには,体罰ということばを多用することによって問題の本質を意図的にずらしているようにも思えるからです。大事なことは,「体罰」ということばの背景に隠されている,もっと根源的な問題をとらえることだ,と考えているからです。

 「体罰」ということばは,もともと生徒がなにか悪いことをしたということが明白なときに,先生がそれを咎めて,二度とそういうことをしないようにという教育者としての愛情を籠めて,罰としてからだに痛みをともなう仕置きをすることだ,とわたしは考えています。その「体罰」が,いつのころからか単なる「暴力」と化すようになり,ことばの正しい意味での「体罰」もふくめて,いっさい禁止されてしまいました。いかなる理由があっても,先生は生徒に「体罰」を加えてはいけない,ということになってしまいました。このことは,じつは,学校現場にあってはたいへんな変化をもたらすことになりました。詳しいことは省略します。

 しかし,全国大会のトップ・クラスをめざしているようなクラブ活動では,スポーツにかぎらず(たとえば,ブラスバンドなど),かなりの「体罰」が行われていることをわたしは知っています。そして,それは,先生と生徒と保護者の間に,深い愛情と信頼という強い絆で結ばれていることが前提です。わたしは,基本的に,このような「体罰」は認めたいと考えています。

 しかし,深い愛情と信頼関係を欠く場合には,それは単なる「暴力」です。こちらは断じて許すことはできません。深い愛情があったとしても「過剰に」なると,たちまち信頼を欠き,単なる「暴力」になってしまいます。このグレイ・ゾーンのあたりがとても微妙です。ここをしっかりと認識し,区別して議論しないと,この問題は,また違った別の「暴力」を生み出すことになります。

 このことがひとつ。

 もうひとつ,体罰ということばを多用することによって事態の本質がすり替えられることを,わたしは恐れています。

 それは,「みてみぬふり」をする「無責任体質」です。この病いはわたしのなかにも巣くっていますので,このことを語るのは「痛み」をともないます。が,思いきって言っておけば,桜宮高校の先生も生徒も,みんな「体罰」が常習化していることを,そして,ときには単なる「暴力」になってしまっていることも,知っていたはずです。学校というところはそういうところです。もし,それすらも知らないでいたとしたら,その方がもっと奇怪しいし,まさに,異常です。当然,教育委員会も承知していたはずです。にもかかわらず,みんな「みてみぬふり」をし,みずからの「無責任体質」を容認したまま,「だんまり」を決め込んでいた,これが実態だったのではないかとわたしは考えています。そして,この「みてみぬふり」「無責任体質」という,もっともっと大きな病理現象が,「体罰」ということばの乱用(これぞほんとうの「暴力」)の陰に隠れてしまっています。そして,議論の対象から遠のいてしまっていることの方を恐れています。

 とまあ,こんな話をさせてもらいました。院生さんたちも,とても真剣にわたしの話を聞いてくださり,いつもにも増してわたしも熱が入りました。聞き手がいいと,わたしの方も元気が湧いてきます。そして,ふだんは考えないような地平にまで,わたしの思考が伸びていきます。そして,いつのまにかわたし自身を「超え出て」いくことになります。これが「感動」の源泉のひとつです。スポーツの「感動」もまったく同じです。

 このほかにも,面白い議論がたくさんありましたが,すでに長いブログになっていますので,残念ながら割愛させていただきます。

 取りあえず,ここまで。

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

nainブログを拝見させていただきました。
ブログのタイトルが「体罰」ですので、メディアと
原発は切り離して、理解できない点をお伺いいたし
ます。

最初にお伺いしたいのは、体罰は暴行さらには
傷害ではないのでしょうか。この顧問の先生は
日本体育大学の卒業とされていますが、大阪体育
大学の大学院の方が「あれだけの伝統を築いてきた
先生ですから,もっと,愛情の籠もった体罰で
あったはずです」と本当に発言されたとしたら、
体育大学では、少なくとも大阪体育大学では、
体罰に関してどのような教育・指導をされているの
でしょうか。また、亡くなられた生徒さんとご遺族に
対しても同じことが言えるのでしょうか。これから
教育現場に赴くかもしれない方の意見としては
思慮分別、いかがなものでしょうか。

「先生と生徒と保護者の間に,深い愛情と信頼と
いう強い絆で結ばれていることが前提です。わたしは,
基本的に,このような『体罰』は認めたいと考えて
います」と述べられていますが、「強い絆」があるか
どうかをどのように判断されるのか、仮にそのような
判断ができるとしたら極めて主観的なものです。
今回の「事件」では亡くなられた生徒さん・ご遺族
との間に「絆」はなかったのでしょうか。

また、このような事件が起きると「厳しい指導」と
いう言葉がよく出てきますが、この言葉は「暴力」に
置き換えることができると思います。「厳しい指導」
や「体罰」を一切やめてみてはいかがでしょうか。
それによって今のトップクラスの運動部で全国規模の
大会に出てこられなくなるところがあるかもしれません
が、暴力に頼らない別の指導方法が必ず案出されて
きます。日本人にはそれくらいの知恵はあります。

最後に「みてみぬふり」をする「無責任体質」について。
このような暴行が日常的に行われていたとしたら、
部員の皆さんが結果的に「みてみぬふり」をしていた
ことが残念でなりません。
なぜ皆黙っていたのか、一軍になるために仲間を捨てた
のか。皆で抗議すればもっと緊密なチームワークや
「絆」ができたのでは、と思わずにいられません。

長文、失礼いたしました。

匿名 さんのコメント...

体罰=傷害だろ 大丈夫か?

匿名 さんのコメント...

http://www.ouhs.jp/news/important/post_208.html
大阪体育大学の教育に関わる宣言

大阪体育大学は、体育・スポーツや福祉の指導者養成に携わる大学としての伝統と社会的責任を踏まえ、クラブ活動を含むあらゆる教育の場において、体罰を行うことや体罰を是とする教育が行われることを断固として拒否します。

平成二十五年一月二十四日

大阪体育大学学長

永吉宏英

大学の方針と食い違うように見受けられるのですが

garchomp さんのコメント...

記事を拝見させていただきました。

記事で書かれているように、議論の対象となる言葉の定義をはっきりさせておくことは本質を理解するために重要だと思います。

 僕も指導として殴る、叩くという行為を行うには信頼関係が築かれた仲であれば認めてもよいという考えには賛成です。ただ、それを愛情と感じない人もいるのではないかと思います。だからこそ糾弾する意見、擁護する意見というように意見が割れているのだと思います。そういうタイプの選手の指導の際は「体罰」は選択肢から外すべきだと思います。

 信頼「関係」というくらいですから、愛情が一方通行では信頼関係は生まれないと思います。

 講義では「愛情の籠もった体罰であったはず」という意見であったそうですが、生徒がその愛情を感じていたのなら自殺することはなかったはずです。


確かに強くなるために体罰が必要だったのかもしれませんが、そのためが犠牲が重過ぎるのではないでしょうか。

匿名 さんのコメント...

日常的に殴られたり叩かれたり、更には二軍に落とすと脅され、「頑張ります」と答えたら更に「なら殴られてもいいんだな」と脅される主観的にも絆があるとは思えないですし、ここまでやるのは議論の余地なく暴行等の犯罪ではないのですか?
将来教育の一手を担う人材に、そのような行為を肯定したままで現場に出て欲しくはないと思います。

長々と失礼致しました。

さんのコメント...

「大阪体育大学の教育にかかわる宣言」

大阪体育大学は、体育・スポーツや福祉の指導者養成に携わる大学としての伝統と社会的責任を踏まえ、クラブ活動を含むあらゆる教育の場において、体罰を行うことや体罰を是とする教育が行われることを断固として拒否します。

http://www.ouhs.jp/news/important/post_208.html

Unknown さんのコメント...

たくさんのコメントをありがとうございました。本日(1月28日),ただひとり匿名ではない大阪体育大学学長さん宛てに,応答させていただきました。断固たる決意表明の「宣言」に感動しました。頑張ってください。応援しています。

匿名 さんのコメント...

このブログは、匿名のコメントにはブログ主のご意見はいただけないのですか? でしたら、匿名の投稿はすべて受け付けないようにするのがよいと思います。著名人のご意見だけが正しいのですか?