2012年1月8日日曜日

キャベツやトマトが捨てられている。おかしな社会に一矢。京大の学生さん。

今日の「東京新聞」は,読ませる記事が多かった。ときおり,「ハズレ」の記事もあるが,このところなかなかの打率である。記者たちにも気合が入っているのだろう。読んでいて心地よいものが多い。それいけ,わっしょい,と祭りのような掛け声をかけたくなる。

その中のひとつ。一面左上に「雨ニモマケズ」3・11から,という連載コラムがある。今日の見出しは,「廃棄食材生かす学生」「形悪いだけで捨てる」「おかしな社会変えたい」というもの。京都大学農学部4年生・森雄翼(ゆうすけ)さんの活動が,わたしの眼を引いた。

森さんは,名古屋の中央卸売市場からでる廃棄食材に注目し,これを譲り受けて被災地に運び,仲間の協力を仰いで調理し,被災者に振る舞っている。野菜は運搬の途中で痛んだり,変色したり,つぶれたりすることがある。それらは廃棄食材として,文字どおり捨てられているという。その量は,市場で取り扱われる全量の1割に及ぶという。これを見過ごす手はない,と森さんは動く。

もう,かなり前から,曲がったキュウリはスーパーなどでも見かけなくなった。トマトの大きさもみんな同じ。キャベツの大きさもほとんど同じ。大根の大きさも,ネギの太さも,みんな揃っている。そういうものしか商品として扱われない,ということは小耳にはさんで知っていた。農産物もいつのまにか規格化された工業製品と同じ扱いになっている。おかしな世の中になったものだ,と思っていた。

こうした現実の社会の仕組みのおかしさに対して,行動を起こす若者がいた。それが森さんだ。野菜は輸送の途中で,いろいろのことが起きて当たり前ではないか。そういうきずもの野菜を全部捨ててしまう社会はおかしい。痛んだところは取り除けばいい。味に変わりはないかぎり,なんとか生かす仕組みを考えるべきではないか。それをしない,おかしな社会を変えたい。これが森さんの根源にある問題意識だ。

しかも,こういう生活の基盤から,ものごとを考え直すことこそが「3・11」以後を生きるわたしたちの,もっとも重要な課題ではないか,と森さんは考える。自分の身のまわりを見回せば,これは変だ,と気づくことは山ほどある。ただ,「裕福な生活」に慣れてしまった人間には,なかなか気づけないかもしれない。しかし,ちょっと意識をそちらに向けるだけで,気づくことは多い。

「3・11」以後を生きるということはこういうことだ。そのことを見極めたところで,森さんは行動を起こしている。立派なものだ。やはり,若者たちの柔軟な発想と行動力に期待するしかないのだろうか。その点,頭の固くなってしまった中年以上の(わたしも含めて)人間は,若者たちに見倣わなくてはならない。

地産地消の時代には,農産物のこんな無駄なことは行われてはいなかったはずだ。わたしですら,高校時代に,自分のつくったサツマイモを田舎の小さな市場に卸に行ったことがある。筵の上に,闇かご一杯分のサツマイモを転がして,競りに掛けてもらった。そのサツマイモは畑でとれたそのままのもので,大きさも,形も雑多なままだ。それでも,ちゃんと買い取ってくれた。いまでは考えられないことだ。ただ,あまりの安さに愕然としたことだけは,はっきりと覚えている。

いったい,いつから,大手の資本に支えられた流通に支配されるようになってしまったのだろうか。いまでは,農家の畑で,すでに色や形の悪いものは捨てられ,値崩れを恐れて畑で腐らせている野菜をみることは珍しいことではない。ごく当たり前の光景になっている。そして,わたしたちは,豊作であろうがなかろうが,つねに,高い野菜を買わされているのだ。

どこか,いまの電気代を連想させる。ドイツなどの地産地消の電気代の倍もの電気代を,わたしたちは全国一律に払わされているのだ。それでも原発はコストがかからない,と嘯かれてきたのだ。とんでもない話である。こういう情報をメディアはもっとまじめに流すべきではないか。しかし,そうはいかないのだ。メディアもまた立派な原子力ムラの一員なのだから。

電気の流通も,どこかで風穴を開けて,地産地消のシステムを構築することを考えなくては・・・と森さんの活動をとおして,強く思わされた次第である。まずは,できることから始めよう。農産物についても,独自の地産地消のシステムを築いて・・・・と。

それにつけても,あまりに贅沢な生活の仕方に慣れきってしまったわたしたち自身が,まずは,できるところから,このライフ・スタイルに決別すること。そのための小さな勇気がいま求められている。

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