2012年1月30日月曜日

「3・11」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。

「ISC・21」1月奈良例会でのわたしのプレゼンテーションの報告をしておきましょう。

日時:1月28日(土)午後1時30分~午後6時
場所:奈良教育大学103教室
プログラム:
第一部:情報交換
第二部:研究報告
稲垣正浩(「ISC・21」主幹研究員/神戸市外国語大学客員教授):
テーマ:「3・11」以降のスポーツ文化を考えるための理論仮説について──ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を手がかりにして。

プレゼンテーションの要旨を箇条書きにして整理しておくと以下のようになります。
1.「3・11」は後近代のはじまりである。
2.「3・11」は天災と人災のふたつの顔をもっている。
3.フクシマは「原発安全神話」が嘘であったことを証明した。
4.理性の狂気化している(『理性の探求』,西谷修著,岩波書店)。
5.「理性」のはじまり・・・・道具とことばの問題系。
6.動物性からの離脱と人間性への移行・・・・このとき,なにが起きたのか。
  「人間になる」とはどういうことなのか。「人間を生きる」とは。
7.超越(性)への畏敬・・・・宗教的なるものの誕生。
8.供犠,贈与(ポトラッチ)・・・・儀礼・・・・祝祭・・・・・「消尽」・・・・太陽。
9.普遍経済学としての『呪われた部分 有用性の限界』と『エロチシズムの歴史』・・・・「所与」。
10.一般経済学・・・・資本主義経済,カネ,金融化。「所有」の問題。
11.「スポーツは消尽である」という命題。・・・・「命」,「生身のからだ」・・・・「所与」。
12.脱自,脱存(ハイデガーのEkstase とバタイユのextase )・・・・この類似と差異。
  「無意識」(ふロイド),「存在から存在者へ」(レヴィナス),「純粋経験」「行為的直観」(西田幾多   郎),「じかに触れる」(竹内敏晴),「力の一撃」(デリダ),など。
13.自己を超え出ていく経験
14.抑えがたくわきあがる情動・・・・エロスの力・・・・「生きる」力・・・・「消尽」(太陽と同じ)。

以上が,わたしの話の骨子です。おおよそ,この見出しに沿って,ごくコンパクトに説明をしました。しかし,まだまだ進化の途中にあるわたしの思考ですので,これからどのようにこの思考が進展していくのかは,わたし自身にも明らかではありません。ですから,とても粗削りな理論仮説にすぎません。これから,みなさんに大いに揉んでもらって,より説得力のある説明ができるようにしたいと考えています。

したがって,詳しくは,このブログをとおして各論を展開していきたいと考えています。しかも,それは容易なことではありません。相当な時間が必要だとも覚悟をしています。しかし,なんとか理路を整然とさせたいと考えていますので,よろしくお願いいたします。それまで,しばらくの間,猶予をください。

これらの要点を問題提起として提示し,そのあとで,みなさんからご意見をいただくことにしました。わたしが時間を多く使ってしまったために,残り時間わずかでしたが,そのわずかな間に貴重なご意見をうかがうことができました。

そのひとつは,以下のとおりです。
「スポーツは消尽である」という表現や考え方に賛成なのだが,それを立証する,証明する方途を明示してほしい,というMさんからのご意見が,ぐさりときました。で,わたしはとっさに「それはできませんし,また,すべきでもない」と考えています,と応答してしまいました。さあ,大変です。そんなぁ,という顔があちこちに現れ,困るという無言の圧力を受けてしまいました。しばらくは,押し問答となってしまいました。が,この問題は,そんなに単純なものではないからです。

そのとき,わたしはふたつの意味を考えていました。
ひとつは,この問題は禅問答のようなものなので,言説化すればするほど違うものになっていってしまう可能性が強い,ということです。ですから,その内実については,あまり語ることはしたくない,と考えたからです。もちろん,個別的な事例のようなものは提示できるかもしれない(それとても,十分とはいえない)。それにしてもむなしいだけだ,と。つまり,言説化の<外>にあるもの,というのがわたしのイメージでした。でも,この問題は避けてとおることはできない,とも考えていました。これは,とても重い宿題をいただいたなぁ,覚悟を決めました。

もう一点は,やはり,わたしたちはどこまで行っても「近代」の論理から解き放たれることはないのか,という絶望にも似た感情でした。つまり,なにごとであれ,すべて論理的整合性をもつロジックで説明しなくてはならない,という業のようなものに取りつかれてしまっている,ということです。しかし,真理には,言説化できないものもある,いな,むしろ,そちらにこそ比重がある,とわたしは考えています。それどころか,言説化できる真理などというものは,ほんのわずかな,とるに足りないほどのものでしかないのではないか,とすらわたしは考えています。

たとえば,音楽や絵画や彫刻やダンスといった表現芸術は,その言説化不能の世界に迫っていく,分け入っていく,つまり,言語によるロジックを超えでていく分野である,と考えています。スポーツもまた,その分野のひとつである,というわけです。

ですから,「スポーツは消尽である」というだけで精一杯。これで「わかった」というか,「わからない」というか,それだけの世界だというわけです。そこには「善悪」の尺度を超えた,あるいは,「正しい」か,「間違い」か,という価値評価を超えでたところの地平が広がっている,というわけです。どちらかに「断定」した瞬間に,それは,オブジェと化し,ショーズになってしまいます。すなわち,バタイユがいうところの「有用性」のなかに閉じ込められてしまう,というわけです。そうした思考のプロセスこそ,まさに「近代」のロジックそのもの,というげです。この軛から抜け出すこと,これこそが「後近代」のロジックだ,という次第です。

「3・11」が「後近代」のはじまりであるとすれば,まずは,この問題を超えでることが不可欠となります。ですので,Mさんの問いに対して,わたしとしては,あの,わけのわからない禅問答のような応答をするしかありませんでした。しかし,けっして軽んじていたわけではない,ということはこの説明で,ご理解いただければ・・・と思っています。

というような次第で,このプレゼンテーションをきっかけにして,わたしはまた一皮剥けることができました。つぎなる展望が,いま,わたしの目の前に広がっています。ですから,楽しくて楽しくて仕方ありません。このつぎなる思考を,なんとしても深めていって,なんらかの形で提示できるようにしたいなぁ,とほのかな願望をいだいています。それが,どのように表出してくるか,は「乞う,ご期待!」というところ。

とりあえず,2月奈良例会での,わたしのプレゼンテーションのご報告まで。

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