2015年10月16日金曜日

太極拳の奥義をさぐる。月刊『武道』10月号からの転載。

 月刊『武道』(10月号,日本武道館発行)という雑誌に投じた拙稿を,恥ずかしながら,ここに転載しておきたいとおもいます。なぜなら,この雑誌,どうやら定期購読者に配布されていて,書店には並んでいないようですので。もっとも大きな図書館などには置いてあるかもしれません。

 というわけで,以下は,拙稿の転載です。
 なお,転載原稿はそのままではなく,多少の訂正・加筆があることをお断りしておきます。

テーマ:太極拳の奥義をさぐる。

太極拳の二つの流れ
 もう,かれこれ10年ほど,太極拳の稽古に励んでいる。稽古を積めば積むほどに,その奥の深さがみえてくる。じつに,懐の深い武術なのだ。まるで,坐禅の世界を思わせる。
 それもそのはずで,太極拳の思想・哲学的なバックグラウンドの一つは「道家思想(『老子道徳経』)にある。そう,一般的には「道教(タオイズム)」で知られている老子の教えである。禅仏教そのものが,インドの仏教と中国のタオイズムとの接触によって生まれたことを考えれば,当然のことではある。嘉納治五郎が説いた「柔よく剛を制す」もまた老子の教えにその根を求めることができる。柔道の「道」の根拠だ。オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』もまた同じだ。つまり,武道の奥義はみんな一つのところに向かっていく,と言っていいだろう。
 さて,太極拳を語る上で,あらかじめお断りしておかなくてはならないことが一つある。中国の太極拳は,もともと武術として編み出され,伝承されてきた。しかし,日本には最初に「健康体操」(楊名時)として紹介されたのち,武術としての太極拳が導入されるという経過をたどった。そのため,いまでも多くの日本人は,太極拳は「健康体操」だと思っている人が多い。また,そのつもりで慣れ親しみ,愛好している人も多い。しかし,その後,武術としての太極拳が日本に導入されことになり,それを競技として愛好する人もどんどん増加し,いまでは日本武術太極拳連盟を組織して,全日本選手権大会を開催したり,世界選手権大会に選手を送り込んだりしている。
 太極拳の愛好者の数は,ひとくちに,連盟に加盟している競技志向の会員約100万人,それ以外の健康体操志向の愛好者約100万人といわれている。この数は,他のスポーツ競技団体と比べても,群を抜く数の多さだと言っていいだろう。つまり,こんにちの日本には,大きく分類すると,太極拳を競技として取り組む集団と,健康体操として愛好するグループの二つが存在している,と言ってよいだろう。

太極拳の奥に広がる禅的世界
 しかし,わたしの仲間たちが取り組んでいる太極拳は,この二つの系譜を継承しながらも,さらに,もう一つの可能性を追究している。それは,端的に言ってしまえば,太極拳の稽古をとおして垣間見えてくる,精神世界の時空間である。
 つまり,冒頭に書いたように,坐禅に通ずる「無心」の世界に遊ぶこと,すなわち,坐禅の神髄に近い経験に接近していくものとして,日々の稽古を位置づけてみよう,というのである。
 坐禅は,道元禅師(『正法眼蔵』)のいうには,修証一等の世界である。すなわち,修行すること(=修)と悟ること(=証)とは一つのことであって,表裏一体のものだ,と道元禅師は説いている。別の言い方をすれば,「証中の修」であり,「修中の証」である,と道元禅師は説く。「証中の修」とは,修行は悟りの範囲内でのものであり,それ以上のものでけはない,と。また,「修中の証」とは,悟りは修行の中に顕現するものである,と。すなわち,修行と悟りとは表裏の関係で結ばれ,たえず,両者の相補関係が維持され,悟りは修行そのものとして表出するのだ,と。
 また,道元禅師はつぎのようにも言っている。坐禅をしてみようと発心することが,すでに,一つの悟りであって,そうしてはじまる坐禅はすでにその悟りの表出そのものなのだ,と。「修証一等」とは,こういうことなのだ,と。すなわち,修行と悟りとは車の両輪のようなもので,相互に影響し合いながら,そのレベルを上げていくのだ,と。だから,無理をして修行しようとしてもなんの意味もない,と道元禅師は説く。

修証一等の世界と太極拳
 翻って,太極拳の場合はどうか。
 この道元禅師のいうことが,いちいち太極拳の稽古にもそのまま当てはまる。
 まずは,太極拳をするにふさわしいからだが出来上がるのに,2~3年はかかる。そして,太極拳らしい動作ができるようになるのに,さらに2~3年はかかる。少なくとも,わたしの場合はそうだった。しかも,この4~5年の間の稽古は,そのつど発見の連続でじつに苦しくもあり,楽しくもあった。
 つまり,からだが出来上がってくるにつれ,太極拳の動作もそれらしくなってくるのである。
 そして,次第に,からだと動作の微妙な緊張関係の狭間に,こころの有り様がきわめて重要な意味をもっていることに気づきはじめる。そこで,この気づきを追究することになる。すると,やがては,心技体がみごとに調和しはじめるようになる。このとき,なんとも言えない快感が全身を走る。
 これは,上手・下手とは関係ないところで起きる現象である。下手は下手なりに,上手は上手なりに,その快感を味わうことができる。この世界は,坐禅のそれときわめて近い,とわたしは受け止めている。つまり,修証一等の世界のそれである。
 初心者も上級者も,いま,持ち合わせているからだにふさわしい表演ができたとき,ある種の喜びの感情・快感が沸き上がる。
 この経験が,おそらくは太極拳のステップ・アップのきっかけとなり,からだも動作もつぎのステージへと押し上げられていく。
 この世界は,もはや,修証一等のそれとなんら変わるものではない。

「無心」──行雲流水の世界
 その究極の世界の一つのサンプルが,わたしたちを指導してくださっているR老師の表演である。初めて,公の場でR老師の表演を見せていただいたとき,直観的にわたしの脳裏に浮かんだのは「行雲流水」ということばだった。じつに静かで,滑らかで,それでいて力強く,からだのあらゆる部位がつねにしなやかに動きつづけるR老師の表演は,わたしに鮮烈な印象を残すものだった。後日,このことをR老師に告げると,「行雲流水」は太極拳の目指す究極の目標の一つだ,だから,わたしはつねにそれを念頭に置いて表演を行うようにしている,と。
 ところが,競技を志向する太極拳は,採点基準が明確に示されていて,そのルールに拘束されてしまう。つまり,少しでもよい得点がでること,これが最優先される。しかも,「行雲流水」的な表演を評価する得点の配分はきわめて少ない。その結果,競技太極拳の動作はますます形骸化していき,太極拳本来の精神世界は軽視され,薄っぺらな表演になってしまう。R老師もこの点を嘆き,憂えている。
 他方,健康体操を志向する太極拳もまた,精神世界のことはあまり重視してはいない。むしろ,舞踊的な美しい動作が求められ,その結果としてこころとからだのバランスを取り戻し,健康をわがものとすることをよしとしているように見受けられる。
 わたしの仲間たちの目指す太極拳は,この両者の狭間をすり抜けるようにして,もともとそうであったように,太極拳本来の奥義ともいうべき精神性に接近してみようというのである。そして,ここにこそ,嘉納治五郎が説いた柔道の世界とも通底する太極拳のもう一つの可能性が開かれている,と固く信じている。わたしたちの太極拳に対するR老師の教えのポイントもここにある。最近は,とくに「無理をしない」「力を抜いて」という檄が多くなってきている。それはまさに「修証一等」の世界の実践である。重く受け止め,その奥義を極めたい,と念じている。
 太極拳のもう一つの可能性,そのゴールは「無心」──行雲流水の世界である。

 以上。月刊『武道』,10月号,P.16~19.
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