2012年6月25日月曜日

カラオケ・マシーンは「神」か? マシーンに隷従する現代人の姿。

 昨夜,たまたま,テレビで不思議な番組をみてしまった。
 最初のうちは無邪気に面白くみていたのだが,そのうちにまことに不快というか,なにかとんでもない勘違いを世間に普及させているのではないか,とだんだん腹立たしくなってきた。こんな風にして,一種の「テクノロジー神話」や「科学神話」が人びとの無意識のなかに侵入していくのか,と気づいて「ゾッ」としたのである。ピエール・ルジャンドルのことばを借りれば「テクノサイエンス経済」という恐るべき魔物がテレビの歌番組にまでもぐりこんで,人々のこころを籠絡しようとしている,ということになる。しかも,面白・可笑しく,無意識のうちに。

 番組の名前は「ご本家VS歌うま芸能人"カラオケバトル9"大物歌手まさかの敗北?オールスターズ全26組」と新聞にある。これをみればおわかりのとおり,カラオケ・マシーンを使って,歌唱力の優劣を点数化して判定をする,お馴染みの番組である。

 歌唱力の優劣などは,なにもカラオケ・マシーンに判定してもらわなくても,プロの歌手の持ち歌に「歌うま芸能人」が挑戦しても勝負にならないことは自明のことである。しかし,カラオケ・マシーンを用いると,そうではない。プロの歌手が負けてしまうのである。そのどんでん返しを増幅させて笑いに誘い込むというのがこの番組の狙いである。堺正章が絶妙の司会で笑いをとりながら,この番組を盛り上げている。

 それがどうした? 単なる娯楽番組なんだから,それでいいではないか,とお叱りを受けそうだ。でも,ちょっと待ってほしい。考えなくてはならない問題はいくつもある。
 思いつくままに書いてみよう。

 まずは,カラオケ・マシーンの判定を絶対化して,有無をいわさず,その決定に従わせるという発想そのものに問題がある。つまり,人間の判定よりもマシーンの判定の方が「公平」で「客観的」だと思い込ませる,みごとなトリックがそこに秘められている。

 たしかに,一定の条件のもとではマシーンは人間よりも「公平」で「客観的」な判定をする。問題はその「条件」である。たとえば,みかんの「糖度」。これなどは間違いなく人間の味覚よりもマシーンの方が精確に測定するだろう。しかし,そのみかんの「美味さ」の判定はまた別ものである。「味わい」や「美味さ」はもっとトータルに判定されるべきものだ。では,みかんの「美味さ」を判定する条件を気のすむまで増やして,それをマシーンに記憶させて判定させればいいではないか,という意見もあろう。しかし,みかんの「美味さ」はそんな単純に数量化できる問題ではない。それらをも超えたところで成立している。つまり,個々の人間の経験や好みによって蓄積され,磨きあげられた「味覚」が決めることだ。言ってしまえば,主観が決めるものだ。主観が決めるとは「うーん,これは美味い」と感ずる感動の強度の問題だ。

 つまり,人を感動させる要素は数え上げることは可能であっても,それを数量化することは不可能だ。歌唱力などはその典型だろう。一流のプロの歌手は,だれひとりとして楽譜どおりには歌ってはいない。音符と歌詞を深く読み込み,解釈して,その意味を自分の情緒にのせて全身全霊を籠めて表現する。その身振り,表情も一緒になって,歌謡曲は短いドラマとなる。そのトータルが歌唱力であり,感動の源泉である。

 だから,この世界は,マシーンがいくら頑張っても達成できない世界なのではないのか。いま,人間ロボットの開発が進んでいて,そのうち恋をするロボットが登場すると言われている。しかし,その恋こそ「機械的にする」ものであって,生身の人間が運命的な出会いによって「恋に落ちる」のとは,まったく次元の違う話である。

 だから,わたしは早稲田大学で人気の講座「恋愛学」なるものに大いなる疑念をいだく,というよりは恐ろしいとさえ思うのだ。つまり,人間の方がどんどんロボットになりつつある,と思うからだ。この現象は枚挙にいとまがないほどだ。

 この伝でいけば,カラオケ・マシーンで高得点を出すための歌唱力が優先されて,プロの,どこか微妙に音程がはずれているような,はずれていないような,それでいて人を感動の渦に巻き込んでいくような,味のある歌唱力は駄目だ,ということになりかねない。点数がすべて,と。もちろん,そういうことにはなりえない,とわたしは確信しているが・・・。

 原理的に言ってしまえば,カラオケ・マシーンは,作曲家の書いた楽譜の指定条件を記憶して,そのとおりに歌われているかどうかを判定する機械である。人を感動させるような条件は,マシーンの判定条件のなかに組み込むことは不可能なのだ。かから,歌謡曲の核心となる「感動」の要素は除外されてしまう。ここが問題なのだ。

 気がつけばカラオケ・マシーンを「神」と崇め,いかにして高い点数をいただくか,という新しい信仰が誕生しつつある。こんな風にして,わたしたちは無意識のうちに,マシーンに対して「自発的隷従」,「思考停止」の状態に入っていき,それが当たり前になってしまう。そして,限りなく無責任になってしまう。いまでは,日常化している「パソコンの変換ミスです」という言い逃れ。これをだれも咎めようとはしない。パソコンは変換ミスはしない。操作している人間が変換ミスを犯しているのだ。そのことにも気づかない人間が増えてきている(「パソコン信仰」)。

 すでに,深く,そういう状態になってしまっている。そのことが問題なのだ。

 原発安全神話もこのようにして形成されたのだ。わたしたちは,いま,そういう状態(「思考停止」「自発的隷従」「情動の欠落」「無責任体質」,などなど)からいかにして脱出するか,という大きな課題に直面している。

 テレビのゴールデン・タイムを独占している「バカ番組」は,まず,間違いなく「カラオケ・マシーン信仰」と同じような構造をもっている。しかも,それが無意識の世界を支配しはじめている。ここが怖いところだ。

 ジョルジュ・バタイユは,原初の人間は「動物性」の世界から離脱して「人間性」の世界へと舵を切ったが,そして,驚くべき文化や文明を生み出したが,その行き着く先は人間の「事物化」だと予言している。いまや,わたしたちはみんな「事物化」への道をひた走っている。だから,原発なしには生活できない,と信じて疑わない人,すなわち,思考停止,自発的隷従,情動の欠落・・・・=「モノと化した人間」=「事物化」した人間が,わたしたちの周囲にはいっぱい存在している。

 この状態からいかにして脱出するか。
 ここをうまく通過しないことには,人間に未来はない。

 わたしの不快感や腹立たしさの根っこは,ここにある。


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