2014年3月25日火曜日

history はhis storyと読める。では、her story は?(今福龍太)

 29日(土)の研究会(「今福龍太氏を囲む会」)が近づいてきましたので,そろそろ研究会に向けて準備に入っています。今回のメイン・テーマは『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房,2013年)をどう読むか,にありますので,まずはこのテクストを徹底的に読み込むことからはじめています。

 しかし,このテクストを読めば読むほどに,たとえば,ヴァルター・ベンヤミンの思想・哲学をどう受け止めるか,そして,多木浩二さんがベンヤミンの思想・哲学のどこに,どのように共振・共鳴しているのか,というところに入っていかざるをえません。しかも,この二人の共振・共鳴関係の間に今福さんが割って入り,いろいろとコメントを差し挟みつつ,多木さんを挑発しつつさらなる思考の深みへと入り込もうとしています。この童心にかえったかのような「知」の戯れにも似た「からみ」のなかで,今福さんはつぎのようなコメントを付しています。

 英語で歴史を表す「ヒストリー」historyという言葉には,あたかも歴史学者による実証主義歴史学の原理を裏打ちするかのような,出来過ぎた地口を含んでもいる。すなわち「history」とは「his story」と読めるからである。たしかに公式の歴史とは男がつくってきた物語であるともいえる。統治や戦争,経済や法律も含め,歴史を構成するあらゆる権力的な要件は,たしかに男性的なロジックによって支えられてきた。男が歴史 history という公的な概念をつくりあげたのであれば,それはまさに「彼の」his「物語」storyにほかならないともいえるのである。だからこそ,フェミニズム思想はそれを転倒させて「her story」(=彼女の物語)を立ち上げようとした。このように語ることはむろん言葉の彩にすぎないが,「歴史」なる概念を批判的に読み替えるときの,それは機知ある跳躍台になりうる。(P.91~92.)

 このコメントは,多木さんが「タイタニック号」のできごとを事例に歴史を語る,その語りの巧みさに触発されて今福さんが反応したものです。多木さんは,タイタニック号のできごとは,「沈没」という「事件」として歴史にその名が残されることになったが,そのとき「溺死」した人びとの歴史は掻き消されてしまっている,と語ります。こうして,歴史はつねに「強者」の語りに終始し,「弱者」の歴史は抹消されてきた,と。そして,ほんとうの「歴史」は「溺死」した死者たちの「物語」の方にあるのではないのか,と問いかけます。そこに今福さんは「歴史」と「溺死」という「音」の近似が,ほんとうの「歴史」が「溺死」してしまうという強烈なイメージを引き寄せ,真実への覚醒をもたらす力があることに注目します。そして,つぎのように語ります。

 言葉による比喩の力には,現実というものの足かせを振り切ってイメージの真実へとたどりつく飛躍の力が秘められていることを,彼は静かに教えようとしたのであろう。(P.93.)

 さて,ひるがえってスポーツの「歴史」はどのように語られてきたのだろうか。問題意識をここに引きつけたときに,スポーツ史研究の分野ではほとんど「歴史哲学」についての議論がなされてこなかった事実に直面し,青ざめてしまいます。そこで語られてきたスポーツの歴史とはいったいなんなのか。なんのために,だれのために,なにを語ろうとしてきたのか。それはもっぱら実証主義歴史学を隠れ蓑にして,いかにもアカデミックな研究をしている「ふり」をしてきただけの話ではないのか。そして,学会もまたそれを「是」としてきました。その近代アカデミズムの虚構,つまり,実証主義歴史学が,いま,音をたててくずれ落ちようとしています。にもかかわらず,そのことに気づくどころか,ますます保身に走る研究者が圧倒的多数を占めています。まことに残念な話ではありますが・・・・。これが現実です。

 しかしながら,少なくとも,わたしたちの研究会に参加してくる研究者仲間は,そこからの「離脱」と,新たなる「知」の地平への「移動」を,はっきりと自覚して研究会を重ねています。その一環として今回は「今福龍太氏を囲む会」を企画し,さらなる飛躍の糸口を見出そうという次第です。しかも,1936年のベルリン・オリンピックを撮影したレニ・リーフェンシュタールの『オリンピア』を題材にして,多木さんがベンヤミンの「歴史哲学」と共振・共鳴しながら,「映像」に秘められた「力」を読み解こうとされた『映像の歴史哲学』がテクストです。

 さて,わたしたちのささやかな,でも大まじめな「挑発」を受けて,今福さんがどのような「レクチュア」を展開してくださるのか,いまから楽しみです。そのために,残る三日間,真剣に準備をしたいと思っています。
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