2012年10月25日木曜日

シモーヌ・ヴェーユの『根をもつこと』上・下(岩波文庫)に再挑戦。

 シモーヌ・ヴェーユの存在を知ったのは,今福さんの『ミニマ・グラシア』(岩波書店)をとおしてでした。このときのことは,すでに,このブログでも書いているので,ここでは省略。ただし,一点だけ。そのときは,「恩寵」ということばだけが気になっていました。つまり,シモーヌヴェーユのいう「恩寵」と今福さんのいう「恩寵」とは,どこでどのように重なるのか,どのように響き合っているのか,その意味内容はなにか,というところにわたしの関心が向っていました。ですから,「根にもつこと」への関心はほとんどないまま,読みとばしただけでした。ただ,妙なことばづかいだなぁ,とは思っていて,ひょっとしたら,という程度には考えていました。

 今回は,「アフター国際セミナー」の席で,西谷さんからシモーヌ・ヴェーユの「根にもつこと」という考え方に興味をもっている,という発言があったのがきっかけでした。「ややコンサーバティブに聴こえるかも知れませんが,そういう意味ではなくて,<根にもつこと>という考え方は一考を要するテーマだと思っています」,とさらりと西谷さんは触れただけでした。しかし,「グローバリゼーションと伝統スポーツ」をテーマにして考えてきた国際セミナーの流れからすれば,「根をもつこと」への西谷さんのまなざしは見すごすわけにはいきません。以前,今福さんの著作との関係を考えていたときに,ちらりと頭に浮かんでいたことが,今回の西谷さんの発言によって,にわかにとてつもなく大きな意味をもつことになりました。

 「アフター国際セミナー」からもどってすぐに『根をもつこと』を読みはじめました。しかし,どうしたことでしょう。いきなり,ハンマーで頭を叩かれたような衝撃を受けてしまいました。なぜなら,『根をもつこと』上の冒頭の書き出しの一行に,つぎのように書かれていたからです。

 「義務の観念は権利の観念に先立つ。」

 えっ!? びっくり仰天です。わたしは,権利の裏には義務がある,あるいは,権利を要求したり,行使したりする場合には,かならず義務も背負わなくてはならない,と教えられたように記憶しているからです。あるいは,無意識のうちにそのように刷り込まれていたのかもしれません。ですから,この冒頭の一行は,ほんとうに眼からうろこが落ちる思いで,わが眼を疑いながら,何回も確認しました。再読だというのに・・・と情けなくなってしまいました。が,これが「出会い」というものなのでしょう。こちらにレディネスがなければ,猫に小判です。

 しかも,この一文には,訳者による訳注がついていて,2ページにわたる詳細な解説があります。それを読んで,またまた,びっくり仰天でした。そこには,フランス革命のときのいわゆる「人権宣言」(「人間および市民の権利の宣言」)に,そのボタンのかけ違いのはじまりがあったことが指摘されていました。さらに,カントの『実践理性批判』と『道徳形而上学原論』を引き合いに出して,そこで述べられている権利や義務についての要点を紹介しています。そうか,ヨーロッパ近代は,義務と権利についても,大きな錯誤を犯していたのか・・・・と。そして,シモーヌ・ヴェーユはその根幹にかかわる疑問を提示して,もう一度「根をもつこと」の意味を問い直そうとしている・・・と。

 ここのところを何回も読み返してから,シモーヌ・ヴェーユのつぎの文章を読んでみました。そこには,つぎのように書かれています。

 「権利の観念とは義務の観念に従属し,これに依拠する。ひとつの権利はそれじたいとして有効なのではなく,もっぱらこれに呼応する義務によってのみ有効となる。権利に実効性があるかいなかは,権利を有する当人ではなく,その人間になんらかの義務を負うことを認める他の人びとが決める。しかるに義務は承認と同時に有効となる。たとえだれからも承認されずとも,その十全性はいささかも失われない。だが,だれにも承認されない権利などなにほどのものでもない。」

 そういうことだったのか,とわたしは自分自身のこれまでを振り返ってしまいました。かつて,「スポーツする権利」について議論が盛んになされていたことがあります。わたしはその議論のなかにどうしても加わることができず,傍観していました。その理由は,「権利」ということばの本来の意味と「スポーツする権利」という表現にどこか齟齬を感じていたからです。ですから,いまでも,「スポーツ権」ということばを使うことができません。その原因の一端はここにあるな,とこれはわたしの直感です。この問題は,また,いつか別の機会に論じてみたいと思います。

 シモーヌ・ヴェーユは,さきの引用につづけて,つぎのように書いています。

 「人間は一方で権利を有し,他方で義務を有するというのは意味をなさない。権利や義務といった語は観点の相異を示すにすぎない。このふたつの語の関係は客体と主体の関係である。個としてみた人間にはもっぱら義務しかない。──中略── 宇宙にただひとり存在する人間は権利をいっさい有さず,ただ義務だけを有するだろう。」

 この引用の最後のところにさしかかったときには,あれっ?バタイユ?と思ったりしながら,このさきも読みつづけることになりました。

 さて,このようにして義務と権利の関係から語りはじめるシモーヌ・ヴェーユの『根をもつこと』の「根」とはいったいどういうことを意味しているのか,いきなり,とんでもないテーマを与えられることになりました。これからもしばらくは,『根をもつこと』に挑戦しながら,わたし自身の思考を深めていきたいと思っています。また,その思考の断片はこのブログにも書かせてもらうつもりです。

とりあえず,今日のところはここまで。シモーヌ・ヴェーユに挑戦する第一報として。

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