2012年10月30日火曜日

スポーツを批評するとはどういうことか。(スポーツ批評事始め・その1.)

 スポーツ評論家やスポーツ・ライターを名乗る人は,最近,急激に増えていることは承知している。けれども,スポーツ批評家を名乗る人は寡聞にしてほとんど聞いたことがない。わたしの知るかぎりでは今福龍太氏,ただひとりだけである。しかも,スポーツ批評家としての立場を明確に示す著作まで著した人となれば,もう,今福氏を除いて他にはいない。

 その著作とは『ブラジルのホモ・ルーデンス──サッカー批評原論』(月曜社,2008年)である。そして,この本の序論のタイトルには「『サッカー批評』とは世界批評である」と書かれている。ここに今福氏のスポーツ批評家としてのスタンスが,これ以上の方法では考えられない形で,明確に示されている。

 この伝を借りれば,「スポーツ批評」とは世界批評である」,ということになる。つまり,「スポーツ批評」=「世界批評」,この両者は同義だということなのだ。となると,問題は「世界を批評する」とはどういうことなのか,というところにゆきつく。だからといって,スポーツ批評の側から,あえて「世界とはなにか」を論ずる必要はないだろう。むしろ,その逆を考えてみたい。つまり,なにゆえに「スポーツ」と「世界」はイコールで結ばれるのか,と。

 わたしの考える解は以下のとおりである。スポーツは世界を写し取る「写し鏡」である。つまり,世界を構成する重要な要素は,すべてスポーツのなかに組み込まれている,と。だから,スポーツとはなにかと問うことは,世界とはなにかと問うこととイコールになる。そのレベルに達したとき,初めて「スポーツ批評」が成立する,と。

 しかし,くり返すことになるが,世界とはなにかを考えるのはわたしたちの仕事ではない。だが,スポーツとはなにかを考えるのはわたしたちの仕事である。したがって,スポーツを批評するということは,スポーツとはなにかを考えることであり,スポーツの本質を問いつづけることである。具体的には,スポーツを成立せしめる根拠を分析・批判することにある。そして,そのことをとおしてわたしたちは結果的に世界の仕組みに接近していくことになる。すなわち,スポーツとはなにかを問うことは,そのまま世界とはなにかを問うことと同義となる。つまり,わたしたちはスポーツを徹底的に批評することをとおして,世界の諸矛盾に向き合うことになる。

 このように考えてくると,スポーツを批評するという営みが,予想をはるかに超える気宇壮大なる思考のひろがりと深みを持つものだということがわかってくる。世にいうスポーツ評論家やスポーツ・ライターと名乗る人たちとはまったく次元を異にする,きわめて特異な分野なのである。その内実は,今福氏の「サッカー批評原論」の構成をみれば,一目瞭然である。

 それによれば以下のようである。
 0 序論 「サッカー批評」とは世界批評である
 1 起源論 身体のアルカイックな分節
 2 伝播論 身体帝国主義の流れに抗して
 3 儀礼論 サッカーをいかに「想像」するか
 4 本能論 遊戯の消息,筋肉の機微
 5 陶酔論 ドーピングの淵から
 6 陶酔論〔続〕 身体の自然を愛すること
 7 戦術論 互酬性のリズムに揺れながら
 8 遊戯論 カーニヴァル,賭博,あるいはブラジルのホモ・ルーデンス
 9 戦術論〔続〕 サッカーにおける「第三のストラテジー」
10 ファンダム論 フットボール民衆神学
11 時間論 ピッチの上のニーチェ主義者

 これまで今福氏が書いてこられた膨大な著作に慣れ親しんできた読者なら,この目次をみただけで,その内容の大方は推測することができる。そして,その思考の魅力的な展開に誘われるようにして入り込んでいくことだろう。わたしがそのひとりであったように・・・・。

 今福氏の提唱する「サッカー批評原論」の骨格を,可能なかぎり単純化して述べておけば,以下のようになろうか。すなわち,その根底に流れているものは磐石の思想・哲学である。それも,ヨーロッパの形而上学の枠組みから大きくはみ出す,いな,それらを根底から否定し,らくらくと超えでていく思想であり,哲学である。そのような思想・哲学をどのようにして手にしたかは,今福氏の著作を丹念に分析していけば,おのずから明らかになる。したがって,ここではこれ以上は踏み込まない。改めて断るまでもなく,文化人類学者として独創的な見解を提示するときのよって立つ基盤と,この「サッカー批評原論」が通底していることは論をまつまでもない。

 このように考えてくると,では,お前はどのようにして「スポーツ批評」を展開しようとしているのか,というところにもどってくる。この点についても,ごく簡単に触れておけば以下のようになろうか。わたしの,いま現在の思想・哲学の大枠をつくる上でもっとも大きな影響を与えてくれたのは西谷修氏である。断るまでもなく,ジョルジュ・バタイユをはじめとするフランス現代思想の系譜につらなる人びとのものについての手ほどきを受けたことにより,わたしの思想・哲学遍歴がはじまる。いま,もっとも頼りにしているテクストはバタイユの『宗教の理論』と『有用性の限界 呪われた部分』である,と白状しておこう。もうひとつの柱は,禅寺に育った環境もあって仏教思想には早くから強い関心をもっていた。とりわけ,『般若心経』と道元と西田幾多郎の名は挙げておきたい。そして,最後のひとりが今福龍太氏である。今福氏の張りめぐらせているアンテナの高さと感度の良さは,もはや言語を絶するといえばいいだろうか。もちろん,西谷氏もそうだが,わたしは,このお二人の「おこぼれ」を頂戴しながら,こんにちを生きている。

 長くなっているので,このあたりで終わりにしよう。
 結論:スポーツ批評も世界批評も,問われるのは,その人が寄って立つ「思想・哲学」にある。あるいは,世界観にある,と言うべきか。

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