ことしの桜の開花は例年よりも早いといいます。東京では17日には開花。一週間後には都内の桜の名所が見頃を迎えるとのこと。この暗いニッポン国にあっては,久しぶりの想定外の朗報です。やはり,大自然は偉大です。世俗の見苦しい騒音など素知らぬ顔,超然としています。やはり,こうでなくてはいけません。
鷺沼の事務所に通う道筋にあるいつもの植木屋さんの庭の桜は,もう,満開です。ただし,こちらは染井吉野ではなくて,河津桜です。そのすぐとなりにある赤い桜(名前がわからない)ももうすぐ開花です。しかし,さらに奥にある八重桜はまだつぼみも固く,素知らぬ顔をして,これまた超然としています。まさに,わが道をゆくです。同じ桜でも,それぞれに「自立」して,それぞれにマイ・ペースを守っています。立派なものです。
寒くて暗かった冬が過ぎ去り,春の嵐が吹き荒れているとはいえ,吹く風はどことなく温んできています。冬の寒さから解き放たれ,春は,やはり,新しいなにかがはじまる予感に満ちた,心浮き立つ季節です。ピカピカの一年生も,もうすぐ誕生です。
能面アーティストの柏木裕美さんが,「パンドラの箱に残る<もの>」というタイトルの作品をブログで紹介されています。わたしは,思わず,アッ,と声を発してしまいました。傑作なのです。これまでの創作能面とはいささか趣が異なる傑作です。これまでの制作のレベルから,なにかまたひとつ突き抜け出たなぁ,と思わせられる傑作です。
この作品もまた「小面変化」のひとつです。ふつうの小面の周囲から太陽のコロナが広がっていて,しかも,それが小面のうしろに流れていくように,立体的になっています。しかも,この小面の眼が,どこか視点が定まらず,神がかった力をもっています。つまり,太陽神となった小面,というわけです。もっとも,これはわたしの勝手な解釈ですが・・・・。
しかも,この太陽神の小面が「パンドラの箱」に残っていた最後の<もの>,すなわち<希望>というわけです。このネーミングがこれまたおみごと。ギリシア神話に詳しい人ならば,その意味の深さに感動です。
柏木さんのブログには,「3・11」によって「パンドラの箱」のふたが開けられ,あらゆる「わざわい」が世に蔓延し,絶望の淵に立たされたいま,最後の望みは<希望>しか残されていない,と結んでいます。この最後に残された<希望>に一縷の救いを求め,そこに生きものとしての<生>のすべてを賭けるしかない・・・と。そんな柏木さんのイメージが,太陽神としての小面となって表出した,ということなのでしょう。いまのわたしたちの未来は,もう一度,人間にとっての宇宙の中心にある太陽から出直すしかない・・・と。
は~るよこい,は~やくこい,あ~るきはじめたミヨちゃんが,あ~かいはなをのじょじょはいて,おんもにでたいとま~っている。
そんな春が,フクシマの家・土地を追われた人びとや,津波に襲われて肉親を失った人びとや,そして,米軍基地のみならず危険なタケトンボとも闘わなくてはならない沖縄の人びとや,あるいはまた,体罰やいじめに苦しめられている人びと(体罰はスポーツ界のみならず,家庭でも,施設でも,企業でも日本中のすみずみまで広く蔓延しているという)にも,分け隔てなく,満遍なく訪れることを<希望>してやみません。
太陽は生きとし生けるもののすべてに,あまねく光と熱を送りつづけてくれます。太陽は,自分のためでもない,だれのためでもない,ただ,ひたすら燃焼するのみです。バタイユのいう「消尽」の原イメージは,まさに,この太陽です。わたしたちの生命もまたその原点は「消尽」あるのみなのです。このことを忘れてしまったときから,生きものとしての人間の悲劇がはじまった,とわたしはバタイユから教えられました。
生きものとしてのヒトは,内在性の世界から<横滑り>して,人間性の世界をめざしたときから逸脱をはじめました。そして,21世紀を迎えた人類は,とうとうまったき「事物」と化してしまったことにも気づかないまま,思考停止と自発的隷従の「ぬるま湯」に浸って,なんの矛盾も感じなくなってしまいました。
こうなったら,もう一度,一からやり直しです。そこにしか<希望>を見出すことができません。それがわたしたちがいま,現在,向き合っている現実の世界なのでは・・・,と柏木さんの「パンドラの箱に残る」は,無言のうちに語りかけているように思います。
歩きはじめたミヨちゃんは,春になったら,どこに向って歩きはじめることでしょう。ミヨちゃんは,そのままわたしたち自身の写し鏡でもあります。わたしたち自身が,あまりに「眼」と「頭」に頼りすぎることなく,「ミヨちゃん」のように,もっと耳を働かせ,匂いを嗅ぎ,皮膚で感じ,味覚を鋭くし,五感のすべてを動員し,かつ,第六感も働かせつつ,トータルに「考える」ことをはじめなくては・・・・と,これはわたし自身への警告です。
クォ・ヴァディス。主よ,いずこへ?
鷺沼の事務所に通う道筋にあるいつもの植木屋さんの庭の桜は,もう,満開です。ただし,こちらは染井吉野ではなくて,河津桜です。そのすぐとなりにある赤い桜(名前がわからない)ももうすぐ開花です。しかし,さらに奥にある八重桜はまだつぼみも固く,素知らぬ顔をして,これまた超然としています。まさに,わが道をゆくです。同じ桜でも,それぞれに「自立」して,それぞれにマイ・ペースを守っています。立派なものです。
寒くて暗かった冬が過ぎ去り,春の嵐が吹き荒れているとはいえ,吹く風はどことなく温んできています。冬の寒さから解き放たれ,春は,やはり,新しいなにかがはじまる予感に満ちた,心浮き立つ季節です。ピカピカの一年生も,もうすぐ誕生です。
能面アーティストの柏木裕美さんが,「パンドラの箱に残る<もの>」というタイトルの作品をブログで紹介されています。わたしは,思わず,アッ,と声を発してしまいました。傑作なのです。これまでの創作能面とはいささか趣が異なる傑作です。これまでの制作のレベルから,なにかまたひとつ突き抜け出たなぁ,と思わせられる傑作です。
この作品もまた「小面変化」のひとつです。ふつうの小面の周囲から太陽のコロナが広がっていて,しかも,それが小面のうしろに流れていくように,立体的になっています。しかも,この小面の眼が,どこか視点が定まらず,神がかった力をもっています。つまり,太陽神となった小面,というわけです。もっとも,これはわたしの勝手な解釈ですが・・・・。
しかも,この太陽神の小面が「パンドラの箱」に残っていた最後の<もの>,すなわち<希望>というわけです。このネーミングがこれまたおみごと。ギリシア神話に詳しい人ならば,その意味の深さに感動です。
柏木さんのブログには,「3・11」によって「パンドラの箱」のふたが開けられ,あらゆる「わざわい」が世に蔓延し,絶望の淵に立たされたいま,最後の望みは<希望>しか残されていない,と結んでいます。この最後に残された<希望>に一縷の救いを求め,そこに生きものとしての<生>のすべてを賭けるしかない・・・と。そんな柏木さんのイメージが,太陽神としての小面となって表出した,ということなのでしょう。いまのわたしたちの未来は,もう一度,人間にとっての宇宙の中心にある太陽から出直すしかない・・・と。
は~るよこい,は~やくこい,あ~るきはじめたミヨちゃんが,あ~かいはなをのじょじょはいて,おんもにでたいとま~っている。
そんな春が,フクシマの家・土地を追われた人びとや,津波に襲われて肉親を失った人びとや,そして,米軍基地のみならず危険なタケトンボとも闘わなくてはならない沖縄の人びとや,あるいはまた,体罰やいじめに苦しめられている人びと(体罰はスポーツ界のみならず,家庭でも,施設でも,企業でも日本中のすみずみまで広く蔓延しているという)にも,分け隔てなく,満遍なく訪れることを<希望>してやみません。
太陽は生きとし生けるもののすべてに,あまねく光と熱を送りつづけてくれます。太陽は,自分のためでもない,だれのためでもない,ただ,ひたすら燃焼するのみです。バタイユのいう「消尽」の原イメージは,まさに,この太陽です。わたしたちの生命もまたその原点は「消尽」あるのみなのです。このことを忘れてしまったときから,生きものとしての人間の悲劇がはじまった,とわたしはバタイユから教えられました。
生きものとしてのヒトは,内在性の世界から<横滑り>して,人間性の世界をめざしたときから逸脱をはじめました。そして,21世紀を迎えた人類は,とうとうまったき「事物」と化してしまったことにも気づかないまま,思考停止と自発的隷従の「ぬるま湯」に浸って,なんの矛盾も感じなくなってしまいました。
こうなったら,もう一度,一からやり直しです。そこにしか<希望>を見出すことができません。それがわたしたちがいま,現在,向き合っている現実の世界なのでは・・・,と柏木さんの「パンドラの箱に残る」は,無言のうちに語りかけているように思います。
歩きはじめたミヨちゃんは,春になったら,どこに向って歩きはじめることでしょう。ミヨちゃんは,そのままわたしたち自身の写し鏡でもあります。わたしたち自身が,あまりに「眼」と「頭」に頼りすぎることなく,「ミヨちゃん」のように,もっと耳を働かせ,匂いを嗅ぎ,皮膚で感じ,味覚を鋭くし,五感のすべてを動員し,かつ,第六感も働かせつつ,トータルに「考える」ことをはじめなくては・・・・と,これはわたし自身への警告です。
クォ・ヴァディス。主よ,いずこへ?
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