2012年10月16日火曜日

詩人の山中六さんから詩集『天の河──一行詩の試み』と『花と鳥と風と月と』がとどく。

奄美自由大学(今福龍太主宰)でお会いした詩人の山中六さんから詩集『天の河──一行詩の試み』と『花と鳥と風と月と』(いずれも,南方新社刊)がとどきました。神戸に出かけていましたので,その留守中に鷺沼の事務所にとどいていました。

今日(16日),久しぶりに鷺沼の事務所に向かいました。このわずか3日間の間に,金木犀が開花していて,事務所にたどりつくまでのあちこちからあの独特の甘い香りが流れてきて,とてもいい気分で歩いていました。そうしたら,郵便受けに,中山六さんから詩集がとどいていました。やはり,今日はとくべつのいい日でした。

山中六さんのことについては,奄美でお会いしたときに,ほんの少しだけの自己紹介で済ませていましたので,詳しいことはなにも知りませんでした。ただ,山中さんから漂う一種独特の雰囲気からして,ただの詩人ではないだろう,とは想像していました。が,その実態が,この詩集をとおしてまた少しつたわってくるものがありました。

詩人であることは承知していましたが,1992年に刊行された詩集『見えてくる』で,翌年の第16回山之口漠賞受賞,という輝かしいご経歴をお持ちの方であることを初めて知りました。ああ,やはり,そういう方だったのが,とこころから納得しました。あまり多くを語ることもなく,なんとなく顔を合わせてにっこりするだけの奄美での出会いでした。が,そこはかとなく漂ってくる雰囲気がふつうではありません。どういう詩を書かれる人なのだろうなぁ,という想像だけでした。だいたいが,今福さんの奄美自由大学に集まってくる人たちというのは,ふつうの人とは違う,まったく得体の知れない人たちばかりです。

山中さんのことを,今福さんが「六さん」と声をかけていましたので,わたしも「六さん,とお呼びしていいですか」とお断りをしたら,「ええ,どうぞ」と快く受けてくださいました。ですから,わたしは最初から「六さん」と呼ばせてもらっています。その「六さん」からの詩集が今日(16日)とどいていました(実際には,もっと前にとどいていたようです)。

事務所に着いたら,すぐにとりかかる予定の仕事(ゲラの校正)がありましたが,そんなものはあとでとばかりに,まっさきに六さんの詩集を開きました。そうしたら,もう,止まりません。2冊とも,息もつかずに一気に読ませていただきました。いやはや,驚きました。単なる詩人ではない,なにかが,奄美でお会いしたときからあって,それはいったいなんなのだろうなぁ,とそれとなく気になっていました。その謎が解けたのです。

なにを隠そう,六さんは舞踏のダンサーでもあったのです。詩集『天の河──一行詩の試み』の扉に,舞踏「天の河」を踊っている山中六さんの写真が載っていて,わたしは思わず「あっ」と声を発していました。そうか,舞踏ダンサーだったのだ,と。六さんの謎のすべてが一瞬にして瓦解しました。こうなったら,詩集を開いて読むしかありません。

しかも,一行詩という,わたしは初めて出会った詩の体験です。一ページに,たった一行の詩が書いてあるだけです。しかも,見開き二ページで対になっていて,右ページにはそのモチーフと思われるキー・ワードがひとこと,そして左ページには一行だけの詩。なんと贅沢な詩集であることよ,と半ばあきれつつ,じっくりと詩文を味わいながらページをめくっていくうちに,すっかり六さんワールドに嵌まり込むことになってしまいました。

たとえば,こんな具合です。

詩集『天の河』のタイトルとなった一行詩は以下のとおりです。
右側のページには,「天の河」と書いてあるだけ。それも,右側ページの8割は余白のみ,残りの2割くらいのスペースに(つまり,左側のページに限りなく近いところに),「天の河」と書いてあります。そして,左ページの中央にたった一行,つぎのように書かれています。

闇夜に精子は天使の衣をまとい

思わず呼吸が止まってしまいました。ナヌッ?! 思わず「天の河」に溺れそうになってしまいました。わたしは泳ぎは得意なはずのに・・・。この気宇壮大な詩空間に圧倒されてしまいました。六さんとはいったいなにものか,と。うん,なるほど,舞踏ダンサーの片鱗が詩にも表出しているではないか,と。

わたしは舞踏にそんなに詳しい人間ではありませんが,少なくとも土方巽と大野一雄の舞踏だけは,ほんの少しだけ拝見したことがあります。それも晩年の舞踏を。そこから敷衍できることは,山中六という詩人は,詩で表現できないことを舞踏で表出させ,そして,舞踏ではうまく表出できないことを詩で表現する,そうしてひとりの人間としてのバランス・シートを保っていく,しかも,それが自己実現のもっとも納得のいく方法である,と。わたしには,そんな風にみえてきます。

一行詩の,これ以上に凝縮させることは不可能な世界への挑戦。そこに果敢に挑む山中六という詩人の抑えがたい衝動のようなものが,全ページをとおしてつたわってきます。

もう一冊の詩集『花と鳥と風と月と』も一気に読ませていただきました。こちらの詩集には,山之口漠賞受賞の「見えてくる」他の詩が収めてあります。こちらは,いわゆるスタンダードな詩集になっています。ちょっぴり安心しつつ,鋭い詩人の感性が,そこかしこに散りばめられた素晴らしい詩集になっています。山中六という詩人を理解するためには,まことによくできた詩集だと思います。

舞踏に片足を突っ込んだ詩人という人を初めて知りました。しかし,よく考えてみれば,土方巽にしろ,大野一雄にしろ,二人とも立派な詩人でもありました。かれらの書く文章は,ふつうの文章ではありませんでした。まさに,詩文でした。ことばとことばの間に,ほんとうの思いが籠められていて,そこに無限の時空間が広がっていました。わたしのような人間ですら,思いもよらない時空間へと誘ってくれる素晴らしい詩文をこの人たちは書いていました。山中六さんも,そういう感性の流れのなかに生きている人なのだ,とわたしは勝手に納得してしまいました。

山中六さん,詩集をどうもありがとうございました。
いつか機会をみつけて,じっくりお話を聞かせてください。
焼酎でも飲みながら。あるいは,泡盛でも飲みながら。

1 件のコメント:

山中 六 さんのコメント...

 ありがとうございます。今になってしまいました。
 心に届く一瞬の光りにも似ていて。

 あれから、朗読、オイリュトミー。反原発デモに参加していました。


お言葉を頂き心より感謝いたします。


                山中 六