2013年9月3日火曜日

「スポーツ批評」ノート・その9.今福龍太のいう「スポーツ評論」と「スポーツ批評」の違いについて。

 これまでに何回も取り上げたことのある今福龍太の名著『ブラジルのホモ・ルーデンス』サッカー批評原論(月曜社,2008年刊)のなかで,「サッカー評論」と「サッカー批評」とは決定的に違うのだ,という明確な指摘をしている。これはそのまま「スポーツ評論」と「スポーツ批評」に置き換えが可能である(厳密にいうとそうではないのだが,ここではよしとしておく)。

 今福龍太は,わざわざ一章を立てて,この問題を詳細に論じている。しかも,「サッカー批評」とは世界批評である,という副題をつけて。

 で,まずは,そのさわりの部分を引用しておこう。

 ・・・・対象化された聖域のなかで幻想的・自己満足的な言説を繰り出すこともできるのが「評論」(コメンタリー)の世界だとすれば,「批評」(クリティーク)という行為はそもそもそうした書き手の主体性を,現実から隔離することが不可能な行為である。なぜなら批評とは,なによりも,思考対象への批評以前に,言説の生産者たる自己と自己が生きる社会への徹底したクリティークによって,批評的言説の生産の場自体を相対化することからしか,はじまらない行為だからだ。したがって,サッカー批評とは,サッカーというものが成立する歴史的・社会的・文化的・政治的文脈へのトータルな批評行為であり,それはすなわち,サッカーに対峙する私たち一人一人の人間の生存条件への徹底した批判力をも含み込んだものでなければならない。私たちがサッカーをし,サッカーを見,サッカーについて語る現実と,社会のリアリティの生産とが,いかに深く,複雑にかかわり合っているのか,という批判意識こそが,サッカー批評のすべての出発点になるからだ。(P.17~18.)

 まずは,この濃密で凝縮された,一部の隙もない,美しい文章を熟読玩味していただきたい。そして,これほどまでに過激に「評論」と「批評」の違いを断じた言説をわたしは知らない。しかも,この文言につづけて,さらに先鋭化した見方・考え方を,つぎのように提示している。

 そしてサッカーと世界とは,たしかに特別に魅力的な形態によって,深く複雑にかかわり合っている。サッカーを見,サッカーを語ることで,私たちは,このアクチュアルな「世界」を見,「世界」を語るもっとも効果的な方法論の一つを手に入れることができる。そして私は,まさにサッカー批評をつうじて,近代の「世界」そのものへの批評,二〇世紀という時代への批評,ひいては二一世紀へと移った現代の「世界」批評が可能であると考えているのである。(P.18.)

 このようにして,0.序論 「サッカー批評」とは世界批評である,の根拠を明らかにしている。こうした今福の批評精神はさらに深化し,つぎのように断言する。

 サッカーを近代スポーツ競技の内部に囲い込むのではなく,近代世界とさまざまな乖離を示しつつも,近代国家原理によって巧みに占有されながら飼い慣らされ,そうした乖離を隠蔽されてきたサッカーの本性を,いま明るみに出すこと。いわば,近代国民国家原理のなかで構造化されてしまったサッカーを,より原初的な身体運動の原理によって救い出すこと。そのうえで,ひと思いに,近代世界そのものを思想的に解体してゆくこと・・・・。「サッカー批評」が身につけるべきもっとも基本的な知的情熱は,ここにしかない。(P.21~22.)

 この壮烈な,気魄のこもった文章に,わたしは二の句も告げることなく圧倒されてしまう。したがって,別の人の言説に助けを求めるしかなくなってしまう。蓮實重彦は『スポーツ批評宣言』(青土社,2004年刊)のなかで,「運動の擁護」という視点からのスポーツ批評を展開しているが,この部分は今福の「より原初的な身体運動の原理によって救い出すこと」に通底しているように読み取れなくもない。そして,蓮實は「潜在的なるものが顕在化するその瞬間を擁護すること」にスポーツ批評の根拠をもとめている。それに対して,今福ももちろん同じ主張を展開しつつ,さらに過激に「ひと思いに,近代世界そのものを思想的に解体してゆくこと・・・」とつっこんでいく。ここに「評論」を切り捨てて「批評」へと跳躍しなければならないという今福の強い意志が「ひと思いに」ということばに籠められている,とわたしは受け止める。気魄満点である。

 最後に,スポーツ評論について,今福は痛烈な一文を書き記しているので,そこの部分をとりだしておこう。
 
 ・・・・こうしたスポーツを聖別化する日常の構造の延長線上に,現在の「スポーツ評論」というジャンルが,したり顔で居座っている。スポーツ評論,スポーツ評論家,スポーツ・ジャーナリズム,スポーツ・ライター・・・。それがどのように呼ばれようと,またそれがいかに感動的な物語をつむぎだそうと,その内実は,スポーツという聖域の存在を無条件に肯定し,それを言説の自律的で純粋な対象として聖別化し,称揚する(あるいはときにスポーツという聖域への自己幻想がかなえられないといって罵倒する)という行為の不毛な繰り返しでしかない。スポーツ評論とは,スポーツという楽しげな小世界のなかで永遠に夢が見られるという錯覚によって成立しているのだ,といいかえてもいい。さらに現代では,学問の世界にもこうしたスポーツの聖別化の動きは広がっており,「スポーツ社会学」「スポーツ哲学」「スポーツ人類学」といったサブジャンルが,あたかもスポーツだけを学問的言説の対象として分離できるかのごとき幻想に陥りながら,社会学や人類学の余録に与って嬉々としている。(P.14~15.)

 この部分もまた強烈である。「スポーツ社会学」「スポーツ哲学」「スポーツ人類学」もまた「スポーツ評論」と同じ聖別化の道を歩んでいる,とバッサリ。いわれてみれば,まことにそのとおり。そこには,思想も哲学も存在しない。「ここでは,スポーツは人間の生活世界の趣味的な部分集合として領域化され,囲い込まれ,そのなかで自己完結した内向的な情報と言説がめぐっている」(P.14.)という次第である。ただ,不思議なことに「スポーツ史」が,この羅列からはずされている。このことの意味するところは重大である。このブログの長期にわたる読者には,その意味するところは明々白々であろう。

 というところで,今回はここまで。

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