2013年9月26日木曜日

『フロイトの「セックステニス」──性衝動とスポーツ』(テオドール・サレツキー編,福原泰平・大川恵里訳,青土社,1990年)を再読。

 大量の蔵書を「T文庫」に寄贈するにあたって,どうしても手元に置いておきたい本だけを選別する作業をしました。そのときにでてきた(長い間,探していたのですが,どうしても見つからなかった)本の一つがこの本でした。いまから23年前に刊行されて,すぐに購入した本でした。

 当時から,この本に大きな衝撃を受けていたのですが,それをどのように表現したらいいのか,その思考の再構築に悩まされていました。あれから20年余,わたしの読解力がかなり向上したことを実感しました。久しぶりに再読してみて,この本は人間のとんでもない深淵にフロイトが分け入っていったさきに見える心象風景を,正直に,そのまま,断片的に書き残したものである,ということがよくわかりました。

 フロイトがテニスの熱烈な愛好者であったということはよく知られているとおりです。早朝の7時にはテニス・コートに立っていた,などという逸話すら残っているほどです。しかも,相当の腕前であったともいわれています。そのかれが,テニスをとおして性衝動との関係に着目し,精神分析の洞察を深めていき,それらを論文にして残したとしてもなんの不思議もありません。しかも,その数はなんと59本もあったといいます(巻末に年表風にまとめた「ジークムント・フロイトのテニス分析論文」による。P.208~213.)。

 が,このテクストに収録されたフロイトの論考は,ノートに書き残されたまま秘匿されていた,とのことです(編者の序文による)。そこには,つぎのように書かれています。
 「1980年春,私は古いかびの生えたトランクを,サザビーズのジークムント・フロイト記念オークションで買った。家に帰り,トランクの中身を綿密に調べ始めた時,『ジークムント・フロイト テニス著作集大要』(1938年)と題された,フロイト自筆の黄ばんでぼろぼろになった原稿を見付けて驚いた。」

 そして,その原稿の書き出しが引用されています。そのまま書き写してみます。
 「以下の記述は,どうであれセックスは素晴らしいものだが,テニスはもっと長く出来るものだ,という私の理論を追求する試みである。私は最近の精神分析的な思考傾向を考える時,ごく少数の仲間以外に誰がこの文章を読んでくれるだろうかと疑いたくなる。ただ時だけが真実を語ってくれるだろう・・・・・」。(P.14.)

 また,この序文の冒頭にはフロイトのつぎのような箴言が引かれています。
 「テニス本能理論によって露わになった真実は,危険と挑発に満ち,永遠に隠蔽されるべきものだろう・・・・。──S.フロイト 1938年」(P.13.)

 また,さらに表紙扉にはつぎのような箴言が掲げられています。
 「人類が誇る文化財,精神的価値,その他それに類するものすべては,
 根底にある本能的衝動の昇華されたものに過ぎない。
 性とテニスは,その最も基本的なものである。
        ──S.フロイト 1923年」

 こんな箴言が随所に散りばめられた,みごとなテクストになっています。その意味では読み始めたらもう止まりません。一気に,最後までいくことになります。

 とりわけ,わたしには「セックスはスポーツである」という長年のテーゼがあります。もっと言ってしまえば,「セックスこそスポーツの始原を構成する原形(Urformen)である」というテーゼをもっています。このテーゼを,どのようにして説得力のあるものにすればいいのだろうか,と長年,考えつづけてきました。その試みの一つが,ジョルジュ・バタイユ読解(『宗教の理論』『呪われた部分 有用性の限界』)でした。そこから導き出された結論の一つは「スポーツは動物性への回帰願望の表出である」というものでした。

  ですから,この到達点に立って,このテクストを再読してみますと,「テニスはセックスそのものだ」というフロイトの主張が随所にでてきて,こころの底から共振・共鳴します。そして,それをもののみごとに精神分析的手法で解きあかしてくれます。これは,やはり,ドイツ語版を手に入れて,しっかり読み込んでみる必要がありそうです。

 なぜなら,このテクストは,ドイツ語で書かれたフロイトの手書き原稿を英語に翻訳して出版されたものを,さらに日本語に翻訳したものですので,日本語に無理があってとても読みにくい部分が少なくありません。やはり,肝腎なところは原文にあたってみる必要があります。

 いずれにしても,このテクストはわたしのテーゼを補強してくれる強い味方であることに間違いはありません。その意味で,とても重要です。

 なお,このテクストは,二部構成になっています。一部では,編者の解説風のまとめ「ジークムント・フロイトの秘められた脅迫観念 テニス本能理論の進化と発展」があって,二部が「ジークムント・フロイトの秘匿したノートの断片と注釈」となっています。当然のことながら,面白いのは「二部」です。そこには編者による「注釈」がついていて,これがとても役に立つ部分と,逆にテニス史からみるとどうかと首を傾げたくなる部分とが混交しています。そこは,読み手がしっかりと腑分けしていく必要があるようです。

 ただ,この注釈のなかには,つぎのような指摘もあって,興味はつきません。
 カール・ユングとフロイトの離別
 ユングはフロイトの夢理論に興味を持ちウィーンでフロイトと劇的な対面をする。その後,フロイトの寵愛を一身に受け1911年,国際精神分析学会の初代会長となる。しかしフロイトの性愛理論やエディプス・コンプレックスの定式化などに反対,1913年には袂を分かっている。

 この指摘は,いまのわたしにはとてもありがたいものでした。それは,ユンク理解を深めることができたばかりではなく,フロイトの目指していた人間洞察の方向性が,バタイユ的思考に引き継がれ,さらには,ドグマ人類学のピエール・ルジャンドル的思考に継承されている,と考えられるからです。このあたりのことは,一度,詳しく考えてみたいと思います。

 そのためのヒントをこのテクストはふんだんに含んでいるという点で,これからも重視していきたいと思います。この奇書に乾杯!というところで,今日はおしまい。

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