2011年3月1日火曜日

バドミントンにルール変更を迫った「力」はなにであったのか。

 競技スポーツのルールが,このところ目まぐるしく変化していく。わたしが,かつて目指したことのある体操競技などは,あまりにめまぐるしいルール変更にともない,なにがなにやらさっぱりわからないものに成り果ててしまった。極端な言い方ではなく,わたしが経験した体操競技とはまったく別物になってしまった。これはいったいどういうことなのだろうか。スポーツ史の専門家としても看過できない重大な問題といわざるをえない。
 昨日,バドミントンの専門家の I さんから,2006年にバドミントンのルールが大きく変更されたことについて,詳しくお話を聴かせていただいた。大きな変更点は,ポイントのカウントの仕方の原理・原則が,まったく別のものになってしまった,ことにあるという。簡単に言ってしまえば,サービス権制からラリー・ポイント制への転換だという。問題は,だれが,なぜ,そのような変更をしなくてはならなかったのか,という点にある,と。
 この変更は,すでに,バレーボールが通った道筋と同じだ。ただ,ひとつだけ違うのは,バレーボールがアメリカ産の競技種目であるのに対して,バドミントンはイギリス産であることだ。が,スポーツ史的にみると,ここはとても重要なところだ,とわたしは考える。
 なぜなら,アメリカという国は,いわゆる近代という時代しか経験していない。しかも,最初から世界中からの移民によって国家が構成されている。いわゆる多民族国家である。したがって,アメリカの文化は,一時に,じつに多くの地域や民族の文化が持ち込まれ,それがミックスされて構築されたものである。だから,「サラダ・ボウル文化」と呼ばれたりもする。そこでの基本原則は「わかりやすさ」であり,だれにも納得のいく「合理性」が求められる。言ってしまえば「単純明解」であること。それがひとつの大きな特徴である。
 ところが,バレーボールのポイントの数え方は,イギリス産のテニスにあったと言われている。だから,最初のころはサービス権制をとっていた。しかし,かなり早い時期にラリー・ポイント制に変更された。わたしの記憶するところでは,時間がかかりすぎる,テレビ放映の時間に合わせる,などが主な理由だったように思う。この結果,どういうことが起きたか。パワーと高さで一気に勝負をかける展開が主流となった。つまり,ヨーロッパ系の長身とパワーを誇るチームに有利となり,アジア系の技術やねばり強さは不利だ,ということ。
 このパレーボールと同じような変更が,2006年にバドミントンで起きたというのである。バドミントンは,さきほども触れたようにイギリス産のスポーツである。王室をかかげる長い歴史と伝統を誇る国家が,とりわけ,産業革命以後の勢いにのって近代スポーツを立ち上げ,その中に,イギリスに伝統的な風俗習慣にもとづくルールやマナーを多く取り入れた。その中のひとつが「サービス権制」という制度である。
 サービスという用語そのものが,テニスから生まれた用語で,前近代から伝承されているロイヤル・テニス(室内の壁面や庇を用いるテニス)の時代から用いられている。この時代のテニスは,テニス・コートそのものが「サービス・サイド」と「ハザード・サイド」と固定されていて,コートのつくりにもハンディがついていた。つまり,サービス・サイド有利,ハザード・サイド不利。これは図面や写真で説明しないとちょっと複雑なので省略。ちょっとしたテニスの歴史の本には書いてあるので参照されたい。
 で,ハザード・サイドのプレイヤーは,この不利な条件をいかに克服して,サービス権を獲得するか,ここに,じつは大きな意味があった,とわたしは考えている。詳しいことは省略するが,不利な条件を克服して,はじめてサービス権を獲得し,そののちに,ようやくポイントを得るチャンスに恵まれるというわけである。このことの意味を語ることは,イギリスの伝統文化や伝統精神について語る必要があるので,残念ながら・・・・。結論からすれば,サービス権制という考え方は,イギリスの伝統的な,固有の文化や精神から生まれた考え方なのである。
 だから,バドミントンでは,長い間,サービス権制が温存されてきた。バレーボールがラリー・ポイント制に変更しようが,そんなことは無視して,サービス権制を大切に守ってきたのである。その精神が,2006年にいたって,ついに放棄されることになったというのである。このように考えると,これは,きわめて重大な変更だ,ということがよくわかる。
 さて,いったい,だれが,なぜ,このような変更を求め,だれが,なぜ,それを「是」として受け入れたのか,ここが最大の問題点。スポーツ史的にも,きわめて魅力的なテーマである。ここを,ぜひ,解明してください,とバドミントンの専門家の I さんにお願いをした次第。
 わたしの中の大きな仮説は,ルール変更の主役が,プレイヤーの論理から,それを管理・運営する側の論理へ,そして,ついには,テレビ放映する側の論理へ,と変化していく,その最後の段階の現象ではないか,というものである。そして,さらには,それがはたしてバドミントンにとって,あるいは,バドミントンを愛好する者にとって,なにを意味しているのか,という新たな問題が提示されている,という点にある。
 さて,I さんがいかなる答えを導き出してくださるか,いまから楽しみではある。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

うーん、一見論理的に見えて、その実びっくりするほど非論理的ですね。大学人としてこういう論文にはたまに出会うのですが。
イギリス文化を例に出しながら、肝心なところは省略し、イギリス文化に深く根ざしているはずのテニスがラリーポイント制であることとバドミントンとの対比が全くなされていないわけで、正直何が何だかわからないですね。
他の記事(特にびっくりしたのがスポーツの勝利至上主義と原発推進が同じ論理という指摘、しかも結論だけしか書かない)も似たようなもんですが。