2015年11月30日月曜日

「非暴力の牙」(クルギ)。ヒップホップで政権を倒す。「まつりごと」(祝祭・政治)の原点に立つ。

 アフリカ・セネガルのヒップホップ集団≪クルギ≫のライブ&国際シンポジウム「非暴力の牙」(11月23日・於東京外国語大学)に参加して,一皮剥ける経験をしました。

 
簡単に言ってしまえば,「ヒップホップ」は,いま流行りの単なる若者たちの文化であって,ラップをしたり,踊ったりするものだ,というわたしの浅はかな認識を根底からひっくり返される,そういう経験だった,ということです。少なくとも,この≪クルギ≫という集団は,そういうとてつもない破壊力をもったラッパーたちだったということです。

 もうひとこと付け加えておけば,かれらのヒップホップは,ときのセネガルの政権をひっくり返すだけの破壊力をもった,ひとつの思想・哲学の徹底した表現であった,ということです。そして,いまは,ヒップホップの「力」を借りて,「社会変革」や「市民による表現と政治」にコミットし,さらには,「経済成長の破局と生者の主権復活」をめざしつつ,世界平和に向けて大きなうねりをつくり出そうとしています。そして,それは着実に成功しつつあります。

 そのことの実態の一部が,23日のライブと国際シンポジウムをとおして,明らかになってきました。わたしはその場に立ち合えたことをとても幸せにおもいました。

 
ひとことで言ってしまえば,ヒップホップは広い意味での「芸能」であり,芸能とは「まつりごと」(祝祭と政治)の根幹をなすものだ,ということをいまさらのように再認識させられた,ということです。つまり,もう一度,「まつりごと」(「政」と「祭」)の原点に立ち返って,世の中の諸矛盾を洗い出してみる必要がある,ということです。ラップは,そのもっとも直截的な方法であり,親しみやすい身近な文化なのだ,と恥ずかしながら知りました。

 その意味で,東京外大での「国際シンポジウム」は衝撃的でした。
 話題の引きだし役に徹した西谷修さんの,ツボをはずさない,みごとなまでの誘導と,広く深い見識にもとづくコメントが光っていました。もちろん,冒頭で,この国際シンポジウム設定の趣旨を話された真島一郎さんの,コンパクトながらもセネガルという国の歴史とクルギの誕生と活動の背景についてのお話が,これまた鮮明な印象を与えるものでした。そして,総合的な司会・進行役を勤められた中山智香子さん。この3人の息の合ったチームワークがみごとでした。

 
シンポジウムでは,リーダーのチャットがひとりで問いかけに応答していましたが,その主な発言の要点は以下のとおりです。

 〇ヒップホップは,政治家のいうむつかしいことばを日常の生活用語に置き換えて,自分たちの日常語で異議申し立てをするものだ。
 〇抽象的なことばでやりとりをしていても,民衆の間に,自分たちの主張は理解され,広まってはいかない。
 〇歌とリズムは,自分たちの思いのたけを,からだをとおして伝えることのできる最大の<武器>である。
 〇わたしたちの最大のコンセプトは「非暴力」ということだ。これは最初から貫いている。
 〇なぜなら,「暴力」による和解はありえないということを経験的に知っているからだ。
 〇「暴力」は,あらたな「暴力」を生み,連鎖反応を起こすだけだ。
 〇空爆もミサイルも平和実現のための武器にはならない。
 〇「非暴力」こそが最大の武器だ。
 〇人のこころを開く,人のこころに響くことばを伝える,人を動かすリズムを刻む・・・それがヒップホップだ。
 〇ヒップホップこそが,わたしたちの武器なのだ。


相方のクーリファのひとことも印象に残りました。
 二人は幼なじみで,子どものころから仲良しだったと聞いていますが,そもそも二人でヒップホップ集団を結成しようとした動機はなにですか,という問いにたいして,つぎのように答えていました。

 わたしたちの家は100mも離れてはいません。チャットの母とわたしの母は同時に「身ごもり」ました。母親同士は毎日のようにおしゃべりをしていました。だから,わたしたちは母親のお腹のなかに,いながらにしておしゃべりに参加していました。ということは,生まれる前から二人はセットだったのです。

 この話は,緊張した話題がつづいていただけに,会場に笑いを呼び,なごやかな雰囲気を醸し出す上で大きな役割をはたしました。どうも,この二人は,チャットがまじめで直球勝負するのに対して,クーリファは,ちょっぴりひょうきんで,意表をつく発言をして,その場をなごませる役割をはたす,そんな関係にあるようです。

 チャットは酒を飲みません。理由は,酔っぱらいが嫌いだから。このあたりにもチャットの性格を読み解く鍵があるようです。

 
シンポジウムのあとでしみじみおもったことがあります。
 それは,「根をもつ」ということ。大地に足が触れているということ。生きる場を確保すること。ここに「生者の主権」があるのであって,「経済成長の破局」はその生者の主権を「根こそぎ」奪い取ってしまうことなのだ,と。「難民」とは,「生きる根」を奪われた人びとのことだ。

 なにか大きな課題をおみやげに頂戴した,そんなシンポジウムでした。
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