2014年2月3日月曜日

デュピュイの「聖なるもののかたち」へのアプローチ。その手がかりを求めて。

 ジャン=ピエール・デュピュイの最新作『聖なるものの刻印』──科学的合理性はなぜ盲目なのか(西谷修・森元庸介・渡名喜庸哲訳,以文社,2014)と,一日に一回はにらめっこをすることにした。とても一筋縄では理解できないので,わかるところを探しながら「にらめっこ」をしてみる。すると,なんとなくわかったような気になるときがある。

 そんな「にらめっこ」の一端を紹介しておこうと思う。わたし自身の思考遍歴の記録を残すという意味で。いえいえ,恥じを忍びつつのストリップ・ショウを演ずると言った方が正しい。しかも,自己の思考を丸裸にしてさらしものにすること,このことがどうやらデュピュイのいう「聖なるもののかたち」のどこかにつながっているのではないか,と考えるからだ。つまり,自己を超え出る経験としての「自己超越」もまた立派な「聖なるもののかたち」のひとつの表出ではないか,と考えるからだ。

 このような考えにわたしを導いてくれた部分がある。
 テクストの序章「聖なるもののかたち」の冒頭に以下のようにでてくる(P.7.)。

 ここでわたしが,まだ手さぐり状態とはいえ記述している形象は,わたしの専売特許というわけではない。それは以前から哲学者たちによって描かれてきた。ヘーゲルは「自己外化(Entaeusserung)」と呼び,マルクスは「疎外(Entfremdung)」,オーストリアの経済学者で自由主義のチャンピオンたるフリードリヒ・ハイエクは「自己超越(self-transcendence)」と呼んだ。けれども,その純粋形に最も近づいたのはフランスの人類学者・社会学者ルイ・デュモンである。かれはそれを「ヒエラルキー」と呼んだが,ただしその際,この言葉を語源的意味で,つまり聖なる秩序という意味で使うと断っている。

 このような文章に出会いますと,まっさきにわたしの脳裏に思い浮かぶのはジョルジュ・バタイユの「恍惚(extase)」であり,「非-知(non-savoir)」という概念です。そこにつづくようにして,荒川修作の「天命反転」(あるいは「転ぶ」)の考え方が思い浮かびます。あるいはまた,仏教でいうところの「百尺竿頭出一歩」(ひゃくしゃくかんとういっぽをいずる)ということばが頭をよぎります。

 これらはいずれも,自己の殻のなかに閉じこもっているのではなく,その殻をぶちやぶって,その外に飛び出していく経験のことを説いています。そして,その自己の外には,自己のコントロールを超えた絶対的存在,すなわち「聖なるもの」の領域が広がっている,ということなのでしょう。そして,その「聖なる秩序」という意味で「ヒエラルキー」がここに加わるというルイ・デュモンの思考は魅力的です。

 ここまで書いてくればもう充分かと思いますが,スポーツの源泉もまたここでいう「聖なるもの」にたどり着くことになります。このテーマについては,すでに,このブログで何回も書いてきたことがらですので,ここでは割愛します。

 デュピュイは,「聖なるものの刻印」がこの現代文明社会にあっても,あちこちに埋め込まれており,そこに科学的合理性が盲目に陥る隘路がある,といおうとしているように思われます。この問題については,これから少しずつ読解しながら考えていこうと思います。

 ということで,今日のところはここまで。
 
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