2014年2月15日土曜日

「歴史がはじまるのは「歴史学」のなかからではない」(多木浩二)。

〇歴史がはじまるのは「歴史学」のなかからではない。
〇本当に主題になるのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。
〇飛躍した連想を可能にするのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。
〇人びとの肌の色つやも息づかいも「歴史」のなかには登場しない歴史である。歴史家は肉体を捉え損なうが,写真家は肉体に視線を注ぐ。
〇写真の視線が達するのは「歴史」のなかには登場することのない歴史である。別に隠れているわけではないが,理性の眼には止まらないのである。
〇「歴史」にも,乱丁,落丁がある。出来損ないの書物のなかの奇妙な迷路。そんな不思議なエアポケットが,写真の場である。歴史学者が見落とした瞬間,瞬間をまた細分した瞬間,空虚をまた空っぽにした空虚。それがほんとうにはまだ見ぬ歴史がはじまる場所である。


 以上は,『映像の歴史哲学』(多木浩二著,今福龍太編,みすず書房,2013年)の冒頭にかかげられた「歴史の天使」と題した6編のエッセイの書き出しの文章です。


 「歴史」のなかに登場することのない歴史──わたしの眼はこのフレーズに釘付けになってしまいました。そして,何回も,「歴史」のなかに登場することのない歴史,「歴史」のなかに登場することのない歴史,と声に出してさまざまな節回しで朗誦してしまいました。


 「歴史」とはなにか。そして,歴史とはなにか。いわゆる大文字の歴史と小文字の歴史,というほどの違いだということはわかります。別の言い方をすれば,歴史学や歴史家がとりくんできた「歴史」と,そこからこぼれ落ちた歴史がある,ということになります。そのこぼれ落ちた歴史の最先端,最末端,あるいは,瞬間・瞬間こそが,詩の生まれる場所であり,歴史がはじまる場所なのだ,と多木浩二さんは主張しているように思います。


 そこで一足飛びに話を飛躍させますが,たとえば,「カッパの相撲好き」ということが言われます。理性的には根も葉もない単なる民間伝承にすぎない,と一刀両断にされておしまい,というのが落ちでしょう。しかし,理性が否定したからといって,情緒はそれで納得するでしょうか。わたしたちのこころのどこかには「カッパの相撲好き」という話に惹かれるものがあります。そして,あれこれ想像をたくましくして,思いをめぐらせ,その空想の世界を楽しんだりもします。


 しかし,歴史学や歴史家はカッパの存在そのものを研究対象には据えません。ましてや,「カッパの相撲」は相撲の歴史からは排除されてしまいます。にもかかわらず,人びとのこころの中から「カッパの相撲好き」ということばは消え去ることはありません。それどころか,カッパと相撲という一種異様なイメージが強烈な印象とともにわたしたちの脳裏に焼きついてしまいます。そして,「カッパの相撲好き」という伝承が,逆に,素朴な詩情をも呼び起こすことさえありえます。それは,いったい,どういうことなのでしょうか。そして,それは,なぜ,でしょうか。


 わたしたちが日常生活を営み,その日常生活を支える素朴な感情は,どこから立ち上がってくるのでしょうか。そこに一つの鍵が隠されているように思います。人間が生きるということの原初の姿に立ち返って考えてみると,そのさきになにかが透けてみえてくるように思います。そこが,たとえば,多木さんが言うところの「それがほんとうにはまだ見ぬ歴史のはじまる場所」ということになるのではないか,とわたしは考えています。


 ですから,「カッパの相撲好き」というテーマを追うことは,多木さんのいう「歴史哲学」の根源的な問い直しをも意味することになる,という次第です。さて,ここからさきは,もう一つ別のテーマを立てて深追いしていくと,とても面白い知の地平が広がってくるように思います。それは,またの課題として残しておくことにして,今日のところはここまで。

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