2015年10月21日水曜日

「演出,あるいは人間的生存の基底。ルジャンドルのダンス論」(森元庸介)。如是我聞。

 10月17日(土)の「ISC21」10月東京例会で,念願のピエール・ルジャンドルの「ダンス論」について,森元庸介さんにお話をしていただきました。嬉しいことに,わたしの期待をはるかに上回る踏み込んだお話をしてくださり,わたしの胸は高鳴りました。正鵠を射るとはこのことでしょう。わたしの期待した問題の核心に,ズバリ切り込んでくださり,加えて,ルジャンドルの含意する知の地平にまで触手を伸ばしてくださった,というわけです。ルジャンドル読みの第一人者として評価の高い森元さんならではのお話でした。

 その全貌を,このブログで語ることはとても不可能ですので,その一部をご紹介しておきたいとおもいます。というよりは,興奮つづきの,わたし自身の頭の中を整理しておく,と言った方が正しいでしょう。

 この研究会の冒頭で,わたしは,つぎのようなお話をさせていただきました。その要点は以下のとおりです。

 スポーツ史・スポーツ文化論を長年にわたって考えてきましたが,ここにきて,とりわけ「3・11」以後にわたしがはっきり意識するようになった新たなテーマがあります。それは,西洋近代が生みだした近代スポーツ競技のミッションは臨界に達し,もはや,つぎなるステージに第一歩を踏み出さなければならない重大な局面を迎えているのではないか,というものです。そして,この局面を打破するためには,もう一度,スポーツ文化とはなにか,人間にとってスポーツとはなにか,スポーツする人間とはなにか,生身のからだを生きる人間にとってスポーツとはなにか,といった根源的な問いを発し,初手から再スタートしなければならないのではないか,ということでした。

 このテーマを考えていきますと,当然のことながら,スポーツ以前の,武術と舞踊の問題が大きく浮上してきます。しかし,いずれも,こんにちの武術や舞踊とはまるで異質の,呪術や儀礼の世界に踏み込んでいくことになります。そして,この問題は,ヒトが動物性から離脱して人間性の世界に移行するところで,いったい,なにが起きたのか,というところに到達してしまいます。もっと言ってしまえば,人間は,生きものとしての動物性と,ことばを話す生きものとしての人間性,すなわち,理性によってコントロールされる人間性との折り合いをどのようにつけようとしてきたのか,というところに至りつくことになります。

 このとき,舞踊はどのような役割をになったのか,舞踊とは生身のからだを生きる人間にとってなにであったのか,その原点を探り当てたい,それがわたしの最大の関心事です。この関心事にルジャンドルはどのように関与しているのか,いまからとても楽しみです・・・・というようなお話をさせていただきました。

 なぜなら,この研究会のために森元さんが立ててくださったテーマはつぎのようなものだったからです。「演出,あるいは人間的生存の基底 ピエール・ルジャンドルのダンス論から」。あらかじめ,このテーマが送られてきていましたので,何回も,何回もこのテーマとにらめっこをしながら,あれこれ考えました。考えるヒントは,ルジャンドルのダンス論のテクストのタイトル『他者たらんとする情熱 ダンスのための考察』(1978年)です。この二つの間を行ったり来たりしながら,思いっきり想像の世界をふくらませていました。

 このわたしの個人的なレディネスにたいして,森元さんのお話は,じつに刺激的であり,むしろ挑発的ですらありました。そこまで踏み込むか,と驚くと同時に,そこまで踏み込まないかぎりルジャンドルの思考をたどることはできないのだ,ということもわかってきました。法制史の専門家であるルジャンドルが「ドグマ人類学」を標榜し,精神分析学を法制史研究に取り込んで,まったく新たな「人間の学」の地平を切り拓こうとしている,ルジャンドルならではの「ダンス論」読解は,そこまで踏み込まなくてはならない不可欠な助走だったのだ,とわたしは大満足でした。

 わたしが聞き取ることのできた,ルジャンドルの「ダンス論」の「肝」に当たる部分は,以下のとおりです。

 「他者たらんとする情熱」・・・ここにルジャンドルのダンス論の源泉をくみ取ることができるのではないか。「他者たらんとする」とは,一つは,セックスのカップルとしての他者に成りきろうとする,という意味であり,もう一つは,わが内なる他者,すなわち,動物性に回帰したい,という意味。この二つは表裏一体のものと考えてよいだろう。言ってしまえば,人間は,セックスをとおして他者と「一つ」になりたい,つまりは,剥き出しの動物性に回帰したい,という二重の拘束を受けている,というわけである。

 しかも,この二つの行き着く先は「情熱」(passion)。この情熱=passion もまた二重・三重の意味を帯びている。日本語では,文字どおり「情熱」であるが,ルジャンドルが用いる passion にはいくつもの意味が織り込まれている。もともとは「苦しむこと」を意味し,キリストの「受難」であり,「(強い)感情」であり,「激情のほとばしり」である,と辞典の語釈にはある。ここを起点にして,まずは「情熱」を筆頭に,「激情」「熱中」「(男女間の)(激しい)愛情」「情欲」「キリストの受難」とつづく。

 つまり,passion とは,受け身の感情であり,その軛からは逃れられないもの,と考えられる。したがって,「他者たらんとする情熱」とは,「他者たらんとする止むに止まれぬ情熱」,あるいは「もう一人でありたい(セックスで交わりたい),止むに止まれぬ苦しみ」を含意している。これこそがルジャンドルの考える「ダンス」の中心にあるものだ,と。

 しかしながら,ダンスは「セックス(=動物性)の成立」を認めない。あるいは,「セックス」が成立したところで,それはダンスではなくなる。すなわち,人間性からの逸脱となる。このぎりぎりの瀬戸際で,ダンスは成立していることになる。

 ルジャンドルの説によれば,ダンスは「もっとも動物的な芸術」であり,「無内容性」にその特質があるという。だから,ダンスにあっては,セックスをどうするのか(あるいは,動物性をどうするのか)という問題がつねにつきまとう。したがって,この「動物性」を「調教」(dressage)する必要がでてくる。これが「制度」(institution)であり,「規範」(nome)である。

 この「制度」や「規範」のなかに隠された論理が「演出」(mise en scene)。なぜ,演出が必要なのか。それは動物性を排除・抑圧・隠蔽し,人間的生存を確保するため。すなわち,剥き出しの動物性を「禁止」(interdit)するための「演出」が,人間的生存の「基底」を確保するために不可欠となる。

 こうして,森元さんが提示されたテーマ「演出,あるいは人間的生存の基底」が明らかにされていきます。以上は,わたしが理解しえた範囲での,それも骨子を要約したにすぎません。もちろん,ことば足らずの説明になっていることは覚悟の上です。しかし,その核心部分のロジックは推測していただけるのではないかとおもいます。

 ここで論じられた森元さんの言説は,いずれ,『スポートロジイ』第4号に掲載する予定です。そこでは,森元さんのプレゼンテーションの全貌が明らかになります。それまで,いま,しばらく時間をください。

 以上,わたしの思考の整理まで。
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