2015年12月27日日曜日

ついに,「坊さん」まで商品化して売りに出す(Amazon)。

 どこか狂ってはいませんか。世の中全体が・・・・。その狂っていることすら気づいていない人が圧倒的多数を占める・・・・。その事実すら,もちろん,気づいてはいない,そういう人びとがほとんど。こうして世の中全体が,だれにも気づかれないまま,「闇」の螺旋階段を一歩一歩降っていく。世にも恐ろしい時代へと向かって。

 とうとう「坊さん」まで商品化して売りに出す,という。いや,すでに売りに出ている,という。しかも,とても便利でいい,と喜ぶ市民は少なくない,という。しかし,仏教界は反発している,という。もちろん,ネット上で大活躍している仲介屋さんは強気で押し切ろうとしている。それを支えているのは,新自由主義経済システム。すなわち,規制緩和。なにからなにまで商品化して売りに出すことを「是」としている。つまりは,市場原理にすべてを委ねる,と。そのことの,どこが悪いのか,と居直る。

 バッカジャナイノ,とわたし。

 あきれ果ててものも言えません。もはや,世も末だ,と。

 お金のためならなんでもします,という拝金主義の坊さんも坊さん。要するに,法事の「出前」を引き受ける,というのだ。どこの,だれかも知らない人の法事を案件によって値段をつけ,引き受ける坊さん。地獄の沙汰も金次第の現代版。これを現代の「自由」と勘違いしていることに気づいていない。

 それを便利でいいと喜ぶ市民も市民。どこの,どんな人かもわからない坊さんに,お経を挙げてもらって,それで「よし」とする市民。簡単,便利。コンビニエンス文化。どんな形式であれ,法事を営んだ,という事実を残せばそれで気が済むらしい。ならば,いっそのこと有名な坊さんの読経のCDを再生して,ありがたく拝聴する方がまだましではないのか。いずれにしても,これまでの寺と檀家の関係を無視した,その場かぎりの法事。これが「自由」だと勘違いしていることに気づいていない。

 仏教界は反発している,という。がしかし,仏教界もまたほんとうの意味での「布教」活動にどれだけまじめに取り組んできたのか,という点では疑問だらけだ。目先の金になることには熱心でも,仏教の本来の使命である人びとのこころの救済には,あまり熱心とは言い難い。ただ,成り行きにまかせたまま・・・・。すなわち,放置。これを「自由」と勘違いしているらしい。

 仲介サービス業者は,売れそうなものはなんでも商品化して売り(市場)に出す。その走りは冠婚葬祭屋さんの出現だった。いまでは,葬式も法事も,商品化されて,なんとか会館で執り行われるのが当たり前となっている。それをさらに踏み込んで,坊さんを「派遣」するという。すべては金次第ということ。それでもなお,社会のニーズに応えるサービス業のどこが悪いというのか,と居直る。市場の論理はどこまでも「自由」だと勘違いしている。

 これが新自由主義経済の実態のひとつだ。フリードマンが言った「新自由主義」(ネオ・リベラリズム)の「自由」がこれだ。すべてを「商品化」して市場の原理=自由競争に委ねる。剥き出しの「弱肉強食」の世界が露呈していく。つまり,弱者切り捨ての思想。それがことばの正しい意味での「自由」だと勘違いしている。

 この勘違いに,多くの人びとは気づいていない。だから,盲目的に,猪突猛進。もはや,とどめようもない。そういう情況をさらに推し進めるべく,アベ政権が率先垂範している。いまや,ジャーナリズムのみならず,司法にまで,その触手が伸びようとしている。

 だから,世も末だ,というしかない。

 そこで置き忘れられているのは,「人が生きる」とはどういうことなのか,というきわめて初歩的な「問い」であり,それに対する応答である。

 こうした情況を見据えた上で,西谷修さんは「共生論」を展開している。血の通った生身の人間が「生きる」とはどういうことなのか,という根源的な「問い」からはじめ,それへの応答として「共生論」を準備する。

 「自由」には限界がある,と。その限界を見極めること。そうしないと,「自由」の意味が転倒し,倒錯した情況にも気づかないまま盲進することになる,と。現代はまさにそういう時代なのだ,と。

 この問題については,おいおい,このブログでも書いていこうとおもっています。
 今回は,その頭出しのつもり。

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