2015年12月7日月曜日

講演「上州の在村剣術と武芸ネットワーク」(髙橋敏)を聞いて。

 12月5日(土)・6日(日)の二日間,第29回目のスポーツ史学会大会が,群馬大学で開催され,上州にやってきました。この大会の特別プログラムのひとつに髙橋敏先生(国立歴史民俗博物館名誉教授)のご講演がありました。タイトルは上記のとおりです。地元・群馬大学の話題にふさわしい内容でしたので,わたしは興味津々でした。

 期待どおり,髙橋敏先生のご講演,まるで講談を聞いているような名弁士ぶりに,おもわず引きこまれてしまいました。これはどう考えてみても素人の語りではありません。間のとり方といい,ことばへの気合の籠め方といい,プロの講談師顔負けの熱弁でした。なるほど,なるほどという説得力があって,みごとなお話でした。

 話題の中心は,上にかかげたように,「上州の在村剣術」を支えた江戸時代の樋口家にありました。表の顔は百姓,裏の顔は武芸の道場主。こういう二つの顔をもった百姓の存在の仕方が,江戸時代にはどうして可能であったのか,という問いと答えがわかりやすく語られました。

 大筋において,なるほどなるほど,と思いながら耳を傾けていましたが,後半に入るにしたがって「おやおや?」とおもうことが多くなってきました。なぜなら,話題のキー・ワードとなるような重要なことばの概念や話題のバックグラウンドとなる歴史的背景が十分に説明されることなく,話が流されていってしまったからです。その主なポイントは以下のとおりです。

 ひとつは「百姓」という存在のとらえ方。つまり,百姓=農民と単純化してとらえてしまっていいのかどうか,という点。百姓とは,文字どおり「百の姓」のこと。その中味は多岐にわたります。たんなる農民集団ではない,ということです。このことの確認がなされなかったこと。

 ふたつには武芸というもののとらえ方。こちらも,武術と武芸の区別がきちんとなされないままに話題が流れていたこと。「武芸百般」といわれるように,武芸の中味も多岐にわたります。と同時に,「武芸」と言ったときの「芸」とはなにかの確認が十分ではなかったこと。

 みっつには天皇制という視点の欠落。江戸時代の天皇制の位置付けは微妙です。武士階級による支配の陰にあっても,なお,ないがしろにはできない存在であったこと,このことと「在村剣術」の伝承とは無縁ではなかったと考えられること。のちの勤皇の志士たちの活躍を考えると,ますます重要な視点ではないかとおもわれるからです。

 よっつには古代史(律令制)にはじまる権力闘争の結果として生ずる敗者の行方が視野のなかに入っていないこと。つまり,支配・被支配の関係が,律令制の進展とともに固定化され,被支配に追い込まれた人びとの生きざまにどのような影響を及ぼすことになったのか,という分析がここでは不可欠ではないか,とおもわれたこと。

 いつつには上州に落ちのびてきた,いわゆる被支配層ともいうべき「河童」族の存在が無視されていること。つまり,権力にまつろわぬ人びとが上州にどのようにして根を下ろしていたのかというまなざしが欠落していたこと。上州といえば,だれもがまっさきに思い浮かべるスーパー・スターである国貞忠治の存在を無視することはできません。こういう人を生みだす土壌が,その背景にはあったはず・・・・。

 むっつには平将門のような人物が輩出した関東一帯の土地の緊張関係についての視点が欠落していて,そういう話題が聞かれなかったこと。

 ななつには・・・・といった調子で,わたしの頭のなかはフル回転していました。もちろん,限られた時間のなかで,あれもこれもすべて説明せよというのは「ないものねだり」にも等しいことであることは十分承知しています。しかし,ごくかんたんに触れていくことは髙橋敏先生くらいの実力者であれば,不可能とはおもえません。ですから,意図的にこれらの視点をはずしているのではないか,と気づいたとき,「おやおや?」という疑問がわたしの中で膨らみ始めたという次第です。

 もっと言ってしまえば,国立歴史民俗博物館に流れている,ひとつの「スタンス」がその背景にはあって,その流れのなかでの髙橋敏先生のご講演であったのではないか,というのがわたしの受け止めたメッセージです。となると,このご講演の意図したところも,それとなく理解できるという次第です。

 とまあ,このブログではこの程度で留め置きたいとおもいます。これ以上に踏み込むには,もっと確たる「場」をセットしなくてはならないと考えるからです。それは,いずれ機会をみつけて・・・考えることにしたいとおもいます。以上,とりあえずのコメントまで。
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