2015年12月14日月曜日

「天と地のレクイエム」を滑る羽生結弦選手に感動。

 グランプリ・ファイナルのフリーの演技でも,またまた世界最高得点を叩き出した羽生選手。おみごと。自己のもつ世界最高得点をさらに超え出る快挙。自己との闘いに打ち勝つ,そう位置づけたグランプリ・ファイナルで,みごとにそれを達成してみせました。そこに忽然と姿を現した新しい自己との出会いに喜び,そして咽び泣く羽生選手の姿。筆舌に尽くしがたい強烈な印象が残りました。

 つぎつぎに自己を超え出ていく姿を,こんな短期間のうちに見てしまうと,やはりスポーツというもののもつパワーの凄さを考えないではいられません。それを,みずからの課題として取組み,みごとに実現してしまう羽生結弦選手の,人間としての底力の凄さに,ただただ感動するのみです。21歳の若者とはとてもおもえません。

 異次元世界で遊ぶことのできる人間を,この眼で確かめることができたわたしは幸せです。このことは,どのように表現してみてもことばは追いつくことができません。

 この感動もさることながら,わたしは,もっともっと大きな感動を味わわせてもらいました。それは,エキシビションで滑ってみせてくれた「天と地のレクイエム」です。演技そのものとしては,こまかなミスがあったようです。が,それをも「演出」ではないかとおもわせるほどの,思いの籠められた滑りでした。羽生選手が,東日本大震災の「ツナミ」と「フクシマ」に全身全霊を籠めて,そこに意識を集中して滑っている「祈り」のようなものが,テレビ画像をとおしてわたしにも伝わってきました。

 おそらく羽生選手の強さの秘密はここにある,とわたしは感じました。「地震」や「ツナミ」や「フクシマ」の災害で苦しめられている人びとのことをおもえば,練習の苦しさなどは問題ではない,と。家・土地を失い,故郷を追われ,放射能に汚染され,癌に怯えながらの生活をおもえば,自分はなんと幸せなことか,と。フィギュア・スケートは自分が好きで選んだ道。その好きな世界での苦しみなど,なんと贅沢な話ではないか,と。東日本大震災の被災者のことをおもえば,自分の努力など取るに足りない,と。

 もっともっと自分自身を追い込んでいくことによって,異次元世界に突入していくこと,そして,そこでの演技を確実に実現してみせること,これこそがフィギュア・スケートで勝負することを決意した自分の宿命のようなものだ,と。そのための苦しさは苦しいほどたしかなものになる,と。そして,その苦しさの極限を通過してこそ,初めて東日本大震災の被災者たちに寄り添うことができるのではないか,と。

 こんなことを,「天と地のレクイエム」の滑りを見ながら,ひしひしと感じていました。

 ですから,グランプリ・ファイナルのフリーの演技として滑った「セイメイ」の凄さをも超え出ていくような,異次元世界をも超えていくような,「なにか」(etwas )を,「天と地のレクイエム」の滑りから感じました。それは,あえて言ってしまえば,ツナミに命を奪われた人びとの「死」や,いまも放射能に怯えながら「死」と向き合っている人びとへの「レクイエム」として,人間・羽生結弦選手がこころの底から祈っている姿をそこにみてとれたからです。

 羽生選手の演技は,もはや競技の世界を飛び出してしまっているのではないか。演技の前に,十字を切り,合掌する姿は,ふつうのトップ・アスリートたちがする所作とは,これまた次元が違います。神々と交信し,共鳴し合う,ことばの正しい意味での「遊び」をわがものとせんとしている人間の姿,といえばいいでしょうか。わたしにはそんな風にみえてきました。

 そして,ここが,羽生結弦選手の底知れぬ凄さの源泉ではないか,と。
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