2015年12月10日木曜日

「力の伝導」ということについて。李自力老師語録・その66。

 今日(12月9日)の稽古で,李老師のからだは,じつに精巧にできた「力の伝導装置」だ,と知りました。しかも,そのレベルの高さを,この眼ではっきりと確認することができました。これ以上にからだの動きを細かく分節化することは不可能である,と断言できるほどの,それは「極限」情況とでも呼ぶべき「伝導」でした。

 それはゆったりとしたスローモーション・カメラの映像をみているような錯覚すら覚えました。しかも,「力」がからだの中をじわじわと伝わっていく,その動きが見えてくるのです。これはいったいなにが起きているというのだろうか,と考えこんでしまいました。

 いま,わたしは「力の伝導」ということばを用いましたが,これをそっくりそのまま「気の伝導」と置き換えてもいいのではないか,ともおもいます。なぜなら,大地の「気」を足裏から吸い上げ,足・脚を伝って股関節を通過させ,さらに,上体から肩・腕・手首・手のひらへと伝え,ついには,指先からその「気」を虚空へと放っているように,わたしの眼にはみえたからです。

 その「力」というか,「気」というか,そういうエネルギーが足・脚⇨股関節⇨胴体⇨肩⇨上腕⇨前腕⇨手首⇨手のひらへと,明らかに「伝導」されていく,そのゆったりとしつつも,ゆるぎない動作が,とてつもない迫力となってわたしの眼に迫ってくるのです。いままで見えていなかったものが急に見え始めた,そんな体験でした。

 すかさず問いにもならない問いを李老師に向けて発することになります。李老師は,それらの問いを真っ正面から受け止めてくださり,つぎのように語ってくださいました。以下に,わたしなりに理解できた範囲で話の要約をしておきましょう。

 まずは全身の力を抜きなさい。そして,必要なところに必要最小限の「力」を入れなさい。その「力」を向かうべき方向に向けてゆっくりと移動させなさい。そのとき重要なのは,「力」の移動の方向をしっかりとイメージすること,そして,そのイメージに合わせてからだが滑らかに動くよう意識を集中させることです。

 しかし,いきなり,イメージどおりにからだを動かすのはとてもむつかしいことです。ですから,まずは,イメージだけの練習をします。眼を瞑って,自分のからだに意識を集中させ,自分のイメージどおりにからだを動かしてみます。動作はつけないで,じっと立ったままで行います。それがある程度できるようになってきたら,こんどは少しだけからだを動かしてみます。つまり,動作をしているつもりになって。ボクシングでいえば「シャドウ・ボクシング」のような要領で。そのつぎには,高い姿勢のまま,最小限の動作でやってみます。安定した,どっしりとした動作ができるようになれば,しめたものです。

 こういう練習を何回も,何回も繰り返します。すると,いつのまにか,静かな「力の伝導」(あるいは,「気の伝導」)が表出してきます。つまり,これ以上に細かな動作の「分節」は不可能というレベルに到達します。もっと言ってしまえば,ひとつの主たる動作を支えるためにからだ全体が連動して動きはじめるようになります。これが「一動無有不動」ということの意味です。この逆が「一静無有不静」です。つまり,「安定」ということの内実です。

 以上,如是我聞です。

 李老師の「力の伝導」(「気の伝導」)は,まことに静かなものです。快晴無風の入江になっている海の砂浜に,満ち潮が満ちてくるときに,小さなさざ波が立つように,ひたひたと潮のエネルギーが汀に「伝導」されてくるような,そんな印象です。まさに,からだのなかを「気」が流れている,あるいは「伝導」されていく状態が眼にみえる,このことが驚異でした。

 しかし,考えてみれば,これまでも李老師に稽古をつけてもらっているのに,この「力の伝導」に気づかなかったのですから,今日の稽古はとてつもなく大きな収穫があった,というものです。この「伝導」に,最初に気づいたのは,じつは兄弟弟子のNさんです。「あれっ?動きが全然違う」と。それを聞いて,わたしも「ハッ」と気づいたという次第です。

 こういうタイミングというのは,これまでたまっていたなにかが,まるで弾けるように一気に噴出するものだ,ということも体験することになりました。ようやくそういうレベルに到達したというべきでしょうか。今日の稽古は,強く印象に残ることでしょう。あとは,李老師の教えを,繰り返し繰り返し,自分のからだのなかに叩き込んでいくだけです。が,これがじつはたいへんなことです。この壁を超えるべく,なんとか頑張ってみたいとおもいます。

 道は遠く,険しい。でも,前に進むしかありません。そこに,もうひとつの安寧の世界が待っているかぎり・・・・。

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