2015年12月21日月曜日

元・武雄山には古代の英雄・トミノナガスネヒコの遺伝子が?

 伝説や伝承は,よほどの傍証でもないかぎり,いまの歴史学は認めようとはしない。しかし,だからと言って完全に否定できる根拠もない。だから,伝説や伝承は,いわゆるグレイ・ゾーンに位置づくものだ。つまり,正しいとも,間違っているとも断定できない「境界領域」にある。

 ということは,信ずる人には「正しい」とおもわれ,信じない人には「間違い」だ,という話になる。しかし,真実は「虚実皮膜の間(あわい)に存在する」とも言う。ここらあたりに,古代史謎解きの妙味がある,とわたしは考えている。

 たとえば,中臣鎌足の出自はよくわかっていない,という。しかし,茨城県の香取神社のすぐ近くに「鎌足神社」があって,この神社の氏子さんたちは,鎌足の出身地はここだ,と信じて疑わない。そのように,代々にわたって語り継がれてきているからだ。要するに「伝承」を「信ずる」立場をとっている。「信ずる」人にとっては伝承が真実なのだ。

 それと同じように,家伝として,我が家の祖先はトミノナガスネヒコである,と伝承されている家系が存在する。その本家の祖父から直々に,その話を聞いた,という人(わたしの若い友人)からの情報である。プライバシーにかかわることなので,実名は控えるが,信頼できる確かな人物である。しかも,古代史研究者として,大部の著作もものしている。しかも,きわめて特異な視点から,日本の歴史を根底から読み直そうという志をもった,素晴らしい人物である。このブログの読者であれば,実名を想定することもむつかしくはないだろう。

 そのトミノナガスネヒコの子孫であるという本家筋からすると,新家の新家筋から力士として活躍した元・武雄山が誕生している。いまは,引退して親方・山分を名乗って,後進の指導に当たっている。本名は冨永丈喜。突き押し一本の,まっすぐな相撲で人気があった。小細工などいっさいしない。勝っても負けても,つねに同じ相撲をとりきることに徹していた。相撲通にはたまらない力士だった。

 その遠い祖先に,トミノナガスネヒコがいる。
 トミノナガスネヒコと言えば,知る人ぞ知る,古代の英雄である。神武天皇が大和に攻め込んできたときに,真っ正面から立ちはだかり,二度も撃退した,という有名な英雄である。しかし,あえなく暗殺され,ついに大和の地を神武天皇に明け渡すことになった。言ってみれば,神武天皇以前の大和を支配していた大王である。その遺跡は大和の各地にいまも残っている。わたしも何回もフィールド・ワークをして尋ね歩いている。

 トミノナガスネヒコとは,文字どおり,「ナガスネヒコ」というとおり,「脛の長い大男」であったことを暗示している。いかにも英雄にふさわしい名前である。その戦いの実績からして,一騎当千の大男で,向かうところ敵なしの武勇を誇っていたに違いない。その遺伝子が,脈々と受け継がれ,こんにちに至り,武雄山を誕生させた,というのである。醜名の「武雄山」には「武勇」の意味も籠められているように,わたしには見える。

 武雄山の出身地は,現役時代には,土俵に上がるたびに場内アナウンスが告げていたように,愛知県豊橋市長瀬町である。長瀬町は,わたしの育った大村町の隣の町で,小学校はこの二つの町が一緒だった。だから,わたしにも長瀬町の友人が何人もいる。長瀬町といえば,冨永と平尾の二つの家系がほとんどで,同級生にも冨永姓が二人,平尾姓が三人もいた。みんな仲良しで,羨ましいほどだった。

 だから,この話は,わたしにとっても他人事ではない。

 隣の町に住む人たちが,そのような伝承を引き継いでいるという「事実」はあだやおろそかにしてはならない,と考えるからです。その長瀬町よりは立地的にはるかに劣悪な大村町(わたしが育った町)に住みついた人たちというのは,いったい,どういう人たちだったのだろうか,と考えてしまうからです。しかも,この町から,ときおり,間違えたかのように立派な人物が誕生しています。大雨が降れば豊川の水が氾濫し,集落が寸断され,学校はお休みになる,というのがわたしの子ども時代の話です。いまは,豊川放水路ができあがり,この問題は解消したようですが・・・・。

 ひょっとしたら,流れ,流れた「河童族」の末裔ではないか,と。しかも,この「河童族」のなかから,驚くほどの人物が登場するというのも,歴史の醍醐味ではないか,とおもったりしています。

 トミノナガスネヒコの末裔も,たぶん,さまざまな名を名乗りながら,生き延びてきているはずです。その直系が,いまも「冨永」姓を名乗って,実在している・・・・,ロマンがあっていいなぁ,とわたしは夢見ています。 

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