2012年3月17日土曜日

赤ん坊を背負って演壇に立ち,演説をぶった吉本隆明さん,ご冥福を祈ります。

吉本隆明さんが逝った。順番だから仕方ないとはいえ,やはり寂しい。まだまだ元気で生きていて欲しかった。そして,「3・11」後のこれからの人間の生き方について,もっともっと語って欲しかった。しかし,もう吉本さんの声は聞かれない。寂しいかぎりだ。

学生時代,ノンポリだったわたしですら,吉本隆明の名前は知っていた。そして,『言語にとって美とはなにか』という本を書店で手にとって,不思議な本を書く人だなぁ,と思った。その当時,体操競技で,下手くそながらも将来はオリンピック出場を夢見ていた人間にも,「言語にとって美とはなにか」という文言がこころの奥底に響くものがあった。それは,体操競技にとって美とはなにか,をストレートに考えさせる文言でもあったからだ。同じ「倒立」をしても,美しいか,美しくないか,がそのまま採点される体操競技にあっては他人ごとではなかった。

でも,当時のわたしには『言語にとって美とはなにか』はほとんど理解できない本であった。それから時間が経過して,ふたたび,吉本隆明という人の存在が大きくわたしの前に立ちはだかってくることになる。それは,まったくの偶然なのだが,当時の東京教育大学のキャンパスのなかで外山滋比古先生とばったり出会ったこと,これがすべてのはじまりだったように思う。

わたしは,学生時代に三河郷友会という愛知県の三河地方出身者が身を寄せる学生寮のお世話になった。その当時に,寮の先輩であり理事である外山滋比古先生と面識があった。わたしは,不本意にも,寮の自治会委員長をやらされていて,いわゆる理事会交渉の矢面に立たされていた。だから,外山先生とも,何回も丁々発止の議論をしなければならないことがあった。

そんなご縁があったものだから,大学のキャンパスのなかで外山先生から,寮の寮監がいなくて困っている,君,なんとか助けてくれないか,という話があった。そのとき,わたしは大学院の博士課程の学生だった。それでもいいから,と外山先生に説得されて,とうとう若い寮監に就任することになった。ここでの経験が,こんにちのわたしの重要な土台になっていることは,まぎれもない事実である。

じつは,いまだから白状するが,わたしにも,ある種の計算・打算があった。それは,70年安保反対を叫ぶ学生運動が激しくなっていて,これからますます激しくなると予想されていたからだ。大学院の院生として,このまま黙って傍観すべきか,それなりの行動をとおして態度を表明すべきか,と迷いに迷っていたときだ。寮監不在の原因は,寮生が激しく寮監に,あなたは70年安保をどのように考えるかと迫ったからだ,と聞いていた。そうか,ならば,その真っ只中に身を投じて,学生たちと真っ正面から向き合って,本気で考えてみよう,と考えた。

ここから先のことは,また,いつか機会をみつけて,しっかりと書いてみたいと思う。
ちょうど,わたしが寮監として着任して間もなくのころ,池袋の公民館(だったと記憶する)で吉本隆明の講演会があると知り,寮生たちには内緒でそれを聞きに行った。もちろん,寮生の何人かはそこにきていて,ばればれだった。が,そのお蔭で,寮生との信頼関係はとてもうまく進むようになり,かられもまた,なにかと相談にくるようになった。そんなきっかけをつくってくれたのも,じつは,吉本隆明さんだったのだ。

そのときの吉本さんは,少し遅刻して,しかも,背中に赤ん坊を背負って登壇した。例によってボサボサ頭に,スーツにネクタイ,そして,背中に赤ん坊。会場は騒然となった。しかし,吉本さんの一声で,会場は水を打ったように静まり返った。
「遅刻してごめん。女房が病気で寝ている。赤ん坊を置いてくるわけにはいかなかったので,背負ってきた。この約束を破るわけにはいかなかった。」
一瞬の静寂のあと,こんどは一斉に拍手喝采が起こった。

しばらく,その拍手喝采を受け止めながら,じっと下を向いたままの姿勢を保っていた吉本さんは,やおら顔を上げ,背中の赤ん坊を忘れたかのように,熱情の籠もった演説をはじめた。そのときの話の内容はなにも覚えてはいないが,吉本さんの生きる姿勢だけが強烈なインパクトとして残った。いまも,ありありとそのときの情景を思い浮かべることができる。

あのときの赤ん坊が,はたして,いまの「吉本ばなな」さんだっだのか,その上の長女の方だったのか,わたしには確認の方法がない。そんなことはどうでもいい。とにかく,赤ん坊を背負って壇上に立ち,安保闘争に全身全霊を傾けている学生さんたちを前に,みずからの思想に全体重をかけて,自説を展開する若き吉本隆明さんの姿が,わたしには忘れられない。

ちょうど,そのころに,寮生としての西谷修さんと出会った。西谷さんも同じ愛知県の三河の出身で,わたしとは高校の同窓でもあり,当時は,東大法学部の学生さんだった。この西谷さんとの出会いもまた運命的なものを感じないではいられないが,この話もまたいつかすることに。

そんなご縁で,わたしは吉本隆明さんの『共同幻想論』を真剣に読むようになり,そして,『心的現象論』も読むことになった。なぜなら,吉本隆明を読んでおかなかったら,当時の学生運動の先端に立っている学生さんたちとは話もできなかったからである。その意味では,当時の寮生さんたちは,わたしの師匠でもあった。必死で勉強しては議論に参加した。が,いつも,やり込められて恥ずかしい思いをしていた。そんなことの繰り返しだった。このあたりから,わたしの思考回路が,いわゆる体育会系から,社会科学系の急進的な考え方へと急転回していくことになる。

こんにちの,わたしのあり方の,最初のとっかかりをつくってくれたのは,やはり吉本隆明さんだったのだなぁ,といまごろになって気づく。その吉本さんが逝った。なんとも寂しいものである。吉本隆明さんのこころからのご冥福を祈りたい。

〔追記〕
西谷修さんのブログに,吉本隆明さんへのお別れのことばが書かれています。ぜひとも,検索してみてください。わたしには,とても,重いことばとして伝わってきました。人はそれぞれに,さまざまな出会いを繰り返し,それぞれの「かたち」を作り上げていくものなのだ,としみじみ思いました。いまや,押しも押されもしない日本を代表する知性の人となった西谷さん。そんな西谷さんと,毎週一回,太極拳の稽古をし,食事をすることのできる幸せを噛みしめています。この場をお借りしてこころからお礼を申し上げます。そして,これからも,どうぞよろしくお願いいたします,と。

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