2011年12月25日日曜日

「けんちく体操」をする身体とはなにか。

「けんちく体操」の発想は20年も前にさかのぼる,と「けんちく体操」博士ことイサーム・ヨネ(米山勇)さんはいう(12月15日のトークショウで)。「えっ,そんなに前なんですか?」とは,「けんちく体操」ロボットの3人。つまり,ずっと長い間,温めてきたものを実践に移したのは10年ほど前とのこと。

「けんちく体操」のそもそものはじまりは,小さな子どものころから「建築」に興味をもってもらおう,そのためにはどうしたらいいだろうと考えた結果,自分のからだで「建築」の真似をする「体操」をしてみては・・・・ということだったそうです。初めのころは,みんなに笑われてしまって,何回もめげてしまったこともあったとは「けんちく体操マン」1号こと高橋英夫さん。

大の大人が,開脚姿勢で立ち,両手を頭の上に伸ばして,手の平を合わせて「ハイッ,東京タワー」とやるだけの「体操」。「そんなことをやっていて恥ずかしくないですか」と取材にきた記者に言われて,ショックだったと高橋さんはいう。

この話を受けて,わたしは,つぎのような話をした。
ここに,じつは,重大な問題が露呈している。体操は「まじめに」やるものであって,そんな「おふざけで」やるものではない,とふつうの日本人は思い込んでいる。つまり,学校教育をとおして刷り込まれている。そして,そこになんの疑問もいだかない。

わたしたちの頭に刷り込まれている体操は,ヨーロッパ近代になって登場したもので,そのはじまりは「医療体操」でした。明治のはじめに日本に入ってきた体操も,ドイツの医者シュレーバーの考案した「医療体操」でした。 とくに「姿勢矯正」に主眼がありました。あらかじめ「正しい姿勢」というものを規定して,そこに国民の身体をはめ込んでいくことを目的とした体操でした。まずは,健康なからだの標準が当時の医学の観点から規定され,すべての国民のからだを健康にすることが目的でした。

こうして,日本の富国強兵策の進展をささえる「強い兵士」と「頑強な労働者」を育成することを目指しました。ですから,初期のころの学校での「体操」は軍人によって指導されました。こうして,「体操」から「おふざけ」は一掃されてしまいました。「まじめに」,近未来に向けて努力する「勤勉さ」が近代を生きる人間の規範として浸透していきました。わたしたちは,その延長線上にいるわけです。

ですから,「体操」は健康のためにやるものだ,しかも「まじめに」やるものだ,と信じて疑いません。そこに「けんちく体操」の登場です。しかも,「けんちく」を好きになってもらうためにやる「体操」です。言ってしまえば,一種の「ものまね芸」です。「芸」であるということは,わたしたちが考えている「体操」とはまったく次元の違うものです。むしろ,面白奇怪しくやる「ふざけごころ」があった方が「芸」の幅はひろがります。しかも,そのひろがりは無限です。およそ健康などというものとは無縁です。

しかし,実際にやってみると,これはたいへんな「体操」です。「ふざけごころ」があるので,目指す「けんちく」の表現のためには相当に無理をしてでも頑張ります。そして,みている人に褒められると,ますます頑張ります。夢中になってやっているうちに,からだには相当の負荷がかかってきますので,筋肉痛を起こすことも稀ではありません。

「けんちく体操」は,からだを用いた「アート」の世界に属しているのではないか,というのがわたしが経験した上での理解です。なにより必要なのは「想像力」(創造力でもある)です。直観したイメージを,からだを用いて,どのように表現するか。これが勝負です。しかも,「けんちく」ですから,静止していなければなりません。動きを抑圧した「体操」です。

これまでの体操の領域には「組み体操」というものがあります。ピラミッドやタワーやブリッジを,集団で表現する組み体操をやったことのある人も少なくないと思います。しかし,こちらの目標は「難易度」の高さにあります。ですから,「おふざけ」は禁物です。

さて,この「けんちく体操」をする身体とは,いったい,いかなるものなのでしょう。生身の身体を「けんちく」にしてしまう,というのですから大変です。いわゆる,ヨーロッパ近代に出自をもつ「けんこう体操」は,自然である身体を,近代的健康観に当てはめていく「文化」的産物です。つまり,わたしたちの身体を「自然」存在から「文化」的存在へと変化させるものです。こんにちの,わたしたちの身体は,現代の「文化」そのものです。

しかし,「けんちく体操」をする身体は,この範疇からはいちじるしくはみ出しています。というよりも,むしろ,次元が違うと言った方がいいかもしれません。なぜなら,「けんちく体操」が目指すものは,「けんちく」を愛するこころを育てること,そして,そのために感性ゆたかに「けんちく」を表現することにあります。ですから,言ってしまえば,みずからの身体をどこまで「けんちく」に近づけることができるか,あるいは,「アート」の素材と化すか,ということになります。つまり,身体の「事物化」の極限を追求しているようにみえてきます。なぜなら,どこまで「けんちく」に成りきるか,一体化するか,が勝負なのですから。

ところが,「けんちく」と一体化したからだからは「快感」が湧き出でてきます。ここに,じつは,わたしはヨーロッパ近代が生み出した健康体操とは異なる,ある種の可能性をみています。ひょっとしたら,近代を突き抜けたさきの,後近代の「体操」となりうる可能性があるのでは?と。その意味で,この「けんちく体操」のこんごのなりゆきには注目したいと思っています。

いつか,「けんちく体操」博士のイサーム・ヨネさんをはじめ,「けんちく体操」ロボットのみなさんと,たっぷり時間をかけてお話をしてみたいなぁ,と考えているところです。わたしの研究会で,その場を設けてもいいなぁ,と。あるいは,一献傾けながら・・・・。ああ,やはり,最初のお話はこちらの方が良さそうですね。楽しみがまたひとつ増えました。

※文中に「からだ」と「身体」ということばが混在しています。これは意図的に仕掛けているつもりですので,お含みいただければ幸いです。

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