以前から約束のあったロックを聴きにいきました。場所は渋谷の「O-West」。
お目当ては「Ain Figremin」(アイン・フィグレミン)。
7つのバンド出演が予定されていたなかの3番目に登場。
これがなかなかいいのでびっくりした。もっともそんな偉そうな評論ができるほどのロックの知識はないのだが・・・・。それでも,とてもよかった。なにがよかったか。
このバンドの演奏は,昨年の末に,はじめて聴いた。昨年のこの種の音楽の新人コンクールで全国優勝したときの演奏がインターネット上に流れているのを聴いた。このときにまず驚いたのは,同じコンクールの最終選考に残った8パンドの演奏とはまるで世界が違うということだった。それは,少なくとも,わたしがロックとして認識している演奏とはちょっと違う「なにか」がそこにあると感じたからだろう,と思う。その「なにか」とはなにか。
激しい情念が爆発していることに変わりはないのだが,どこか「悲しい」のである。「悲哀」といったらいいだろうか。あるいは,「存在不安」。身のおきどころがみつからない,こころのよりどころがみつからない,どうすればいいんだ,と叫んでいるかのように。若者らしく純粋に自己をみつめ,他者をもとめ,どこまでいっても答えはみつからない。そのいらだちに情念のすべてをぶちこんで,爆発,炎上しようとする。どこか「もの哀しい」ものが,そこからにじみ出てくる。
そう,そうなんだよ,と老人のわたしは応答する。自己の存在は,「いま」という瞬間にたちまち消え去っていく。つぎからつぎへと消え去っていく。すべては過去という時間性のなかに雲散霧消していく。だから,未来をもとめるしか方法はない。しかし,その未来もまた,どこにもたしかな手応えを与えてはくれない。それは夢の世界だから。でも,夢がなくては人間は生きてはいけない。だから,その不確かな未来に夢をかけて生きていくしか方法はないのだ。その夢を見失ったとき,人間は,日常性のなかに埋没してしまい,平凡に,日々同じことのくり返しをはじめる。惰性,マンネリ・・・・そう,ハイデガーのいう「頽落」だ。
このバンドは,この「頽落」に我慢がならないのだ。だから,なにがなんでもここから抜け出そうとする。そして,そのさきにしか「生きる」ことの意味はない,と信じているかのように。だから,そこにわたしは哲学者が感じているような「悲哀」や「存在不安」を聴きとる。これが,たぶん,他のバンドとは違う「なにか」の根拠だろうと思う。
以上が,ネットを流れていた演奏を聴いたときの印象。
今回は,それの「ライブ」だ。やはり,ライブに勝るものはない。しかも,この半年くらいの間に,わたしの耳がたしかなら,飛躍的によくなっている。なにが?ボーカルの歌唱力とギターの演奏力が。そして,このボーカルとギターを,ベースとドラムがみごとに支えている。メンバーの気持がひとつに溶け合っている。そして,一種独特の音楽世界をかもしだしている。
バンドのメンバーを紹介しておこう。
Mii:Vocal & Guitar/Hiroaki Yokota:Base/Shinya Okuno:Drums.
all songs & lyrics composed,written by Mii.
なにを隠そう,このMii君に逢いたくて,わたしはこのライブにでかけたのだ。
8年ぶりの再会を楽しみに。そう,2003年の春から夏にかけて,わたしとこのMii君とはドイツのケルンでしばしば顔を合わせた,という過去がある。当時,このMii君は中学生。なのに,わたしが客員教授をしていたドイツ・スポーツ大学ケルンのゼミナールに参加していた。あれから8年。その間も,何回か会うチャンスはあったが,なんとなくすれ違っていた。そして,その間に,あの中学生だったMii君がロック・バンドを結成して,音楽の世界に打ってでたという。そして,またたく間に,大阪から渋谷のO-Westに招かれるようになった。ラッキー・ボーイだ。そのラッキー・ボーイに8年ぶりに会って話ができた。もちろん,演奏が終わってからだが・・・・。
立派な大人の男になっていた。そして,とても自然体なのがよかった。8年の空白を一気に跳び越えて,いい呼吸で話ができた。そして,かれの方から「こんどはゆっくりお酒でも呑みましょう」と誘ってくれた。嬉しかった。こういう若者から誘われることはもうないと思っていたから。
ひとつだけ質問をした。ひとりのファンとして。「Ain Figremin というのはどういう意味?何語?」「ぼくの造語です。ふつうではない,なにか特別なもの,という意味のつもりです」という。なるほど,造語だったか,と感心する。そして「ふつうではない,なにか特別なもの」という意味を与えたのも,とてもいい。ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』によれば,人間が動物性の世界から抜け出すときの第一歩は,オブジェの発見だった,という。つまり,「ふつうではない,なにか特別なもの」,それがバタイユのいうオブジェの概念だ。ここから人間の理性が立ち上がる。このオブジェからはじまって,それに名づけをしていくのも「ふつうではない,なにか特別なもの」に対してだ。そうして,ついには「神観念」に到達する。「神様・仏様」も Ain Figremin だ。「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては「いのち」(命)が新たな意味をもつ Ain Figremin となった。
ボーカルの発声もしっかりしてきたし,ギターの音も素晴らしい。まだまだ,どんどんうまくなる,そういう時期だ。そして,なによりハートがいい。ステージも控え目で,さりげなく現れて,さりげなく去っていく。演奏も途切れることなく,さりげなく音をつなげながら,つぎの曲目に移っていく。この流れもいい。そして,後味がいい。あれだけ激しく爆発しているのに,しんみりしたものが伝わってくる。とてもいい感じだ。
これからの Ain Figremin の活躍を大いに期待したい。
この秋にはCDデビューすると聴いている。いまでも,購入しようと思えばできる。わたしは会場でCDを一枚,購入した。しばらくは,これを聴いて愉しむことにしよう。
ちなみに,HPのアドレスは下記のとおり。
http://ainfigremin.jp/
お目当ては「Ain Figremin」(アイン・フィグレミン)。
7つのバンド出演が予定されていたなかの3番目に登場。
これがなかなかいいのでびっくりした。もっともそんな偉そうな評論ができるほどのロックの知識はないのだが・・・・。それでも,とてもよかった。なにがよかったか。
このバンドの演奏は,昨年の末に,はじめて聴いた。昨年のこの種の音楽の新人コンクールで全国優勝したときの演奏がインターネット上に流れているのを聴いた。このときにまず驚いたのは,同じコンクールの最終選考に残った8パンドの演奏とはまるで世界が違うということだった。それは,少なくとも,わたしがロックとして認識している演奏とはちょっと違う「なにか」がそこにあると感じたからだろう,と思う。その「なにか」とはなにか。
激しい情念が爆発していることに変わりはないのだが,どこか「悲しい」のである。「悲哀」といったらいいだろうか。あるいは,「存在不安」。身のおきどころがみつからない,こころのよりどころがみつからない,どうすればいいんだ,と叫んでいるかのように。若者らしく純粋に自己をみつめ,他者をもとめ,どこまでいっても答えはみつからない。そのいらだちに情念のすべてをぶちこんで,爆発,炎上しようとする。どこか「もの哀しい」ものが,そこからにじみ出てくる。
そう,そうなんだよ,と老人のわたしは応答する。自己の存在は,「いま」という瞬間にたちまち消え去っていく。つぎからつぎへと消え去っていく。すべては過去という時間性のなかに雲散霧消していく。だから,未来をもとめるしか方法はない。しかし,その未来もまた,どこにもたしかな手応えを与えてはくれない。それは夢の世界だから。でも,夢がなくては人間は生きてはいけない。だから,その不確かな未来に夢をかけて生きていくしか方法はないのだ。その夢を見失ったとき,人間は,日常性のなかに埋没してしまい,平凡に,日々同じことのくり返しをはじめる。惰性,マンネリ・・・・そう,ハイデガーのいう「頽落」だ。
このバンドは,この「頽落」に我慢がならないのだ。だから,なにがなんでもここから抜け出そうとする。そして,そのさきにしか「生きる」ことの意味はない,と信じているかのように。だから,そこにわたしは哲学者が感じているような「悲哀」や「存在不安」を聴きとる。これが,たぶん,他のバンドとは違う「なにか」の根拠だろうと思う。
以上が,ネットを流れていた演奏を聴いたときの印象。
今回は,それの「ライブ」だ。やはり,ライブに勝るものはない。しかも,この半年くらいの間に,わたしの耳がたしかなら,飛躍的によくなっている。なにが?ボーカルの歌唱力とギターの演奏力が。そして,このボーカルとギターを,ベースとドラムがみごとに支えている。メンバーの気持がひとつに溶け合っている。そして,一種独特の音楽世界をかもしだしている。
バンドのメンバーを紹介しておこう。
Mii:Vocal & Guitar/Hiroaki Yokota:Base/Shinya Okuno:Drums.
all songs & lyrics composed,written by Mii.
なにを隠そう,このMii君に逢いたくて,わたしはこのライブにでかけたのだ。
8年ぶりの再会を楽しみに。そう,2003年の春から夏にかけて,わたしとこのMii君とはドイツのケルンでしばしば顔を合わせた,という過去がある。当時,このMii君は中学生。なのに,わたしが客員教授をしていたドイツ・スポーツ大学ケルンのゼミナールに参加していた。あれから8年。その間も,何回か会うチャンスはあったが,なんとなくすれ違っていた。そして,その間に,あの中学生だったMii君がロック・バンドを結成して,音楽の世界に打ってでたという。そして,またたく間に,大阪から渋谷のO-Westに招かれるようになった。ラッキー・ボーイだ。そのラッキー・ボーイに8年ぶりに会って話ができた。もちろん,演奏が終わってからだが・・・・。
立派な大人の男になっていた。そして,とても自然体なのがよかった。8年の空白を一気に跳び越えて,いい呼吸で話ができた。そして,かれの方から「こんどはゆっくりお酒でも呑みましょう」と誘ってくれた。嬉しかった。こういう若者から誘われることはもうないと思っていたから。
ひとつだけ質問をした。ひとりのファンとして。「Ain Figremin というのはどういう意味?何語?」「ぼくの造語です。ふつうではない,なにか特別なもの,という意味のつもりです」という。なるほど,造語だったか,と感心する。そして「ふつうではない,なにか特別なもの」という意味を与えたのも,とてもいい。ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』によれば,人間が動物性の世界から抜け出すときの第一歩は,オブジェの発見だった,という。つまり,「ふつうではない,なにか特別なもの」,それがバタイユのいうオブジェの概念だ。ここから人間の理性が立ち上がる。このオブジェからはじまって,それに名づけをしていくのも「ふつうではない,なにか特別なもの」に対してだ。そうして,ついには「神観念」に到達する。「神様・仏様」も Ain Figremin だ。「3・11」以後を生きるわたしたちにとっては「いのち」(命)が新たな意味をもつ Ain Figremin となった。
ボーカルの発声もしっかりしてきたし,ギターの音も素晴らしい。まだまだ,どんどんうまくなる,そういう時期だ。そして,なによりハートがいい。ステージも控え目で,さりげなく現れて,さりげなく去っていく。演奏も途切れることなく,さりげなく音をつなげながら,つぎの曲目に移っていく。この流れもいい。そして,後味がいい。あれだけ激しく爆発しているのに,しんみりしたものが伝わってくる。とてもいい感じだ。
これからの Ain Figremin の活躍を大いに期待したい。
この秋にはCDデビューすると聴いている。いまでも,購入しようと思えばできる。わたしは会場でCDを一枚,購入した。しばらくは,これを聴いて愉しむことにしよう。
ちなみに,HPのアドレスは下記のとおり。
http://ainfigremin.jp/
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