2014年1月11日土曜日

『科学者が人間であること』(中村桂子著,岩波新書)を読む。「生きもの」である人間の復権を,と説く。

 「科学者が人間であること」という書名を眼にしたとき,この本はなんだろう,なにを言いたいのだろう,と不思議に思った。著者が生命科学者の中村桂子さんなので,なにか尋常ではない企みがそこに隠されているな,とは思った。しかし,妙な書名である。

 まずは,なによりひとつのフレーズとして収まりが悪いのである。完結していないのである。中途半端なのだ。そんなことは承知の上で,著者はこの書名をあえて選んだに違いない。だとしたら,なにか言いたいのか。主語の「が」を「は」に置き換えてみる。「科学者は人間であること」。あまりに平凡で,もっと変だ。まるでピンぼけ写真をみるような後味の悪さが残る。まだ,「科学者が人間であること」の方が,どことなくアグレッシーブでいい。どこか挑発的である。

 「科学者が人間であること」とはどういうことなのか,と問いかけているようにも読める。あるいは,「科学者が人間であること」を忘れてしまっているではないか,そこに現代の科学がはまり込んでしまった諸悪の根源がある,と言っているようにも読める。また,「科学者が人間であること」はきわめて困難な情況にある,とも読める。「科学者が人間であること」は当たり前のことなんだよ,と説得しているようにも読める。あるいはまた,「科学者が人間であること」は不可能だ,と言っているようにも読めてしまう。いささか深読みに類するが,科学が客観的な事物を研究対象にしているかぎり,その研究に従事する営みをとおして科学者もまたいつのまにやら「事物」(バタイユ)に成り果ててしまうのだから,と。

 著者の中村桂子が,なにを企んでこの書名を付したかは,中を読んでいくとすぐにわかってくる。
わたしが予想したとおり,そのいずれの読みもすべて正解なのである。そして,「科学者が人間であること」の宿命的な困難を,科学が歩んできた道(歴史)をはじめ,哲学や思想のサイドからも光を充てながら,ありとあらゆる問題点をとりあげて,丁寧に解説をしていく。だから,書名は「科学者が人間であること」でなくてはならなかったのだ。

 16,7世紀に端を発するこんにちの科学は客観主義を貫くあまりに,客観化できる要素だけを取り出して,それを科学の研究対象と定めたところに,最大の間違いがあった,と突き止めている。つまり,科学者が人間であるためには主観的なものの見方や考え方も温存していなくてはならない。しかし,科学の客観主義は科学者の主観を完全に排除し,否定する方向に向かった,という。だから,「科学者が人間であること」は不可能となってしまったのだ,という。そして,そこにこそ現代の科学の悲劇がある,と。

 その悲劇の最たるものが3・11後の福島原発のメルトダウンにある,と著者は苦悩する。なぜ,こういうことになってしまったのか,科学者のひとりとしてその解を得るべく,この2年間,徹底的に熟慮を重ねたという。そして,多くの識者とも議論を重ね,多くの関連文献を渉猟し,思考を積み重ねた結果の,現時点での結論をまとめたものが本書である。

 著者は冒頭で,みずからの思考のスタンスを「人間は生きものであり,自然の中にある」と見極め,ここから出発する。そして,なぜ,こんな当たり前のことを,科学者が見失ってしまって,行き先不明の迷走をはじめてしまったのか,と問う。そして,その最大の理由は,科学者として当然,身につけていなくてはならない「思想・哲学」の欠落にある,と喝破する。そして,この当たり前をとりもどすための手法とその根拠を丁寧に解きほぐしていく。

 しかも,それは,現代社会を生きるわたしたち全員の問題でもある,と説く。

 「科学万能神話」を生みだしたのはだれか。そして,それを信じたのはだれか。それは,なぜ生まれ,なぜ多くの人に信じられたのか,と問いかける。そして,ここからの脱出の手法について,そして,その根拠について,いかにも生命科学者らしい真摯な姿勢で,自問自答してしながら,みずからの思想・哲学,世界観,自然観,宇宙観を練り上げていく。

 その導きの糸となっているのは大森荘蔵の哲学である。たとえば,『知の構造とその呪縛』(『大森荘蔵著作集』七巻,岩波書店)のなかで展開されている「近代科学批判」を前面に押し立てて,どこでボタンの掛け違いをしてしまったのか,そのルーツをたどっていく。その冒頭で,まずは大森荘蔵のいう「世界観」についての考えを引用する。

 「元来世界観というものは単なる学問的認識ではない。学問的認識を含んでの全生活的なものである。自然をどう見るかにとどまらず,人間生活をどう見るか,そしてどう生活し行動するかを含んでワンセットとなっているものである。そこには宗教,道徳,政治,商売,性,教育,司法,儀式,習俗,スポーツ,と人間生活のあらゆる面が含まれている」。
 「この全生活的世界観に根本的な変革をもたらしたのが近代科学であったと思われるのである。この近代科学によって,特に人間観と自然観がガラリと変わり,それが人間生活のすべてに及んだのである」。

 というところから出発して,みずから「生命科学」から「生命誌」へと研究者としてのスタンスを変えなくてはならなかった思考の遍歴を明らかにしていく。簡単に言っておけば,「生命科学」の陥ってしまった隘路から抜け出し,生命現象をトータルに捉える新たな研究領域として「生命誌」に到達する道筋を明らかにしていく。このあたりの自戒の念に満ちた論の展開はなかなかに説得力をもつ。そして,「生命誌」的視座に立つこと,それが「人間は生きものであり,自然の中にある」という認識に立つことだ,と著者は主張する。

 このあたりのところを読みながら,わたしの脳裏に浮かんでいたことは,「スポーツ科学」が陥った隘路(人間機械論的立場,あるいは二元論的立場)から抜け出すための試行錯誤の結果,ようやく至りついた「スポーツ学」(Sportology)の構想は間違いではなかった,という共感であり,確信である。

 ようやく科学者の側から,このような主張をする人が現れたことは,「科学万能神話」にみごとに染め上げられてしまった現代社会を生きる人びとへの,きわめて説得力のある警鐘として歓迎したい。もちろん,部分的には,わたしなりに異論はある。たとえば,iPS細胞の研究をめぐる現状に対する警鐘の鳴らし方は,この程度のものでいいのだろうか,とわたしなどは危惧する。なぜなら,iPS細胞の研究もまた,このままで行ってしまうと「原子力発電」と同じ問題を引き起こす構造になっていることを,「生命誌」の専門家として明確に指摘しておいてほしかったからである。

 いずれにしても,中村桂子さんの切り拓いた新境地に基づく「科学批判」として,多くの示唆に富んだ名著である。そして,その原点にある「人間は生きものであり,自然の中にある」という,もっとも当たり前のことを,ごく当たり前に提起されたことに,こころからの拍手を送りたい。

 そして,ここまでくれば,書名の『科学者が人間であること』に籠められた著者の真意も納得できるものとなる。しかも,真意を表象する,とてもいい書名である。

 ご一読をお薦めする。


 




 
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