2014年1月2日木曜日

箱根駅伝・東洋大学往路優勝おめでとう。テレビの放映の仕方にひとこと。

 箱根駅伝は大好きなので,毎年,応援することにしている。とくに,これといって贔屓の大学があるわけではない。が,若者たちが一生懸命に走る姿は美しい。この箱根駅伝に向けて一年間,それぞれに精進を重ね,晴れの舞台に立つ。だから,選手たちの顔の表情も引き締まっていて,とてもいい。みんな,それぞれの可能性にかけて真剣勝負だ。

 その晴れの舞台で,初日の今日,往路で脚光を浴びたのは東洋大学チーム。一区でやや出遅れたが,二区で頑張り,三区で駒沢大学を逆転した。そのあと,四区,五区と頑張ってトップでゴール。その頑張りとチーム・ワークの良さに感動した。これはチームの裏方もふくめた全員の勝利だ。そういうチームの輪(和)があってこその結果だ。そのうちのどれかひとつ欠けても,この結果は得られない。駅伝とはそういうスポーツなのだ。

 たまたま,昨年11月末に開催されたスポーツ史学会大会の会場が東洋大学(朝霞キャンパス)だったので,あのキャンパスで学んでいる学生さんたちが走っているんだ,と密かに親しみを覚えながら応援をしていた。強豪・駒沢大学もよく頑張った。しかし,わずかに59秒,及ばなかった。5人の選手が東京から箱根まで,100㎞余を走ってつないで,たった59秒の差で明暗を分けた。復路に,充分期待をもてる僅差だ。さあ,明日の両大学のデッドヒートを楽しみにしよう。

 今日も多くの感動をテレビ観戦していていただいた。そのテレビに対して苦情を言うのはいささか気がひけるが,ここは言っておかなくてはなるまい。もっともっといい放映をしてもらうためにも。そして,箱根駅伝とはなにか,スポーツとはなにか,ということをテレビ放映チームに理解してもらうためにも。

 それはいまにはじまったことではないが,一つは,コマーシャルの流し方だ。今日,とくに酷かったのは,東洋大学と駒沢大学がゴールした直後に,東洋大学の監督・選手へのインタヴューがはじまったと思ったら,その途中でコマーシャル。そして,かなり長いコマーシャルが流れてからの,再インタヴュー。選手たちはその間,雛壇に立たされ,待ちぼうけ。再び映し出された選手たちの顔は,もう,感動もどこかに消え失せ,うんざり,いい加減にしてくれと言わぬばかりの表情が剥き出しになっていた。応答もどうでもい,と言わぬばかりのものだった。なんと冷めた選手たちなのだろうかと思った人もいたのではないかと思う。しかし,これは選手たちに責任はない。わけてもインタヴューしたアナウンサーの問いかけも,気の抜けたものばかりだった。選手たちにとってはどうでもいい問いかけばかり。もっと核心をつく問いを発すれば,選手たちの顔にも精気がよみがえってきたはずだ。すべては,テレビ局のディレクターの責任だ。

 ゴール直後の優勝チームの感動を伝えようとした企画であることはよくわかる。ならば,なぜ,その途中にコマーシャルを挟んだのか。しかも,長々と。テレビ観戦していたわたしですら,いま,このタイミングでコマーシャルはないだろう,と心底腹を立てていた。東洋大学,駒沢大学につづいて,その他の大学が,ゴール前のデッドヒートを繰り広げている真っ最中だ。まさに死力を尽くして,アンカーたちがチームの命運を賭けて頑張っているのだ。そんな,駅伝にとって一番大事なときに「コマーシャル」。箱根駅伝を冒涜している。

 たぶん,スポンサーやディレクターたちは,もっとも効果のあるコマーシャル・タイムだと信じて疑わないだろうが,そうではない。わたしなどは,あまりの腹立たしさに,さっさとチャンネルを切り換えて他局を覗き見しては,また,もどってくる,を繰り返していた。その間の長いこと。これにも驚いた。したがって,この間,どんなコマーシャルが流れていたのか,なにも知らない。いいたいことは「無駄だ」ということ。しかも,駅伝を台無しにしているということ。

 その間,インタヴューも聞きたい,そして,まだ,ゴールしていない大学がどこを,どのように走っているのか,をこそ知りたい。コマーシャルなどはとんでもない。

 それから,もう一点。東洋大学の選手たちはみんな一丸となって,よく走った。素晴らしかった。にもかかわらず,何回も何回も,そして,ニュースでも,報じられたのは「双子の設楽兄弟の力走」だった。たしかに設楽兄弟の活躍はみごとだった。しかし,この兄弟の力走を際立たせたのは,一区の選手が手堅くまとめた走りをしたこと,そして二区で成長著しい選手がその役割をきちんと果たしたこと,さらには四区の死力を尽くしてのあの力走があったからだ。その選手たちに支えられて,はじめて設楽兄弟の快走が生まれたのだ。その事実をないがしろにしてはならない。

 テレビ局のディレクターやプロデューサーたちの,箱根駅伝というものに対する認識の甘さが,こういうところに露呈してくる。とりわけ,スポーツとはなにか,という根源的な問いが欠落している。安易に「ヒーロー」を見つけ出して,それを強調すればこと足れり,と思っているらしい。そうすれば視聴率がとれる,その採算がかれらの第一の課題なのだ。だから,そのためには駅伝を成り立たせている影の部分などはどうでもいいのである。目立つところ,もっとも分かりやすい感動だけを演出すればそれでいいのだ。その結果が,勝利至上主義。勝った,負けた,それだけの娯楽に成り下がっていてもかられは平気なのだ。

 もちろん,それだけでも人は感動する。しかし,それが駅伝(スポーツ)だと多くの視聴者は思い込んでしまう。そうして,もっともっと豊穣な文化であるはずの駅伝(スポーツ)が,単なる勝ち負けだけの,やせ細った文化に成り果ててしまう。そういうものを,わたしたちは今日も箱根駅伝をとおして,一方的に押しつけられてしまったのだ。こんなことの繰り返し。この点については,わたしは大いに失望した。

 限られた時間のなかで,なにを,どのように伝えるのか,はとても難しいことだ。だからといって安易な方向に流されて欲しくない。きちんと考えればできるはずだ。そのために必要なことは「思想」だ。スポーツ・ジャーナリストに,いま,もっとも必要なのは「思想」だ。人が生きるということとスポーツはどのようにかかわっているのか,そのことを考える気概が必要なのだ。すなわち,スポーツを批評する精神。スポーツ批評。

 このことは,ことしも繰り返し考えていきたいと思っている。
 とりあえず,今日のところはここまで。

 スポーツに「思想」を。
 
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