ちょっとあきれてしまって,ものも言えないくらいショックを受けた記事が目に入り,どうしようか迷った末にこのブログで書くことにした。
朝日新聞夕刊一面の下段に,「人・脈・記」という大きなコラム記事が連載されている。9月2日は「イラク 深き淵より・22 憎しみを超えて 共生へ」という見出しで,ウルリッヒ・ベックさん(ドイツの社会学者)と見田宗介さんの主張が紹介されている。そして,ベックさんのまことにまっとうな主張に対して,見田さんの主張は,どう考えてみても納得しがたい。それどころか,見田さん,大丈夫ですか,と問いただしたい。いやいや,怒りすら覚える。そして,同時に,このような記事を朝日新聞は掲載して,たぶん,両論並記のつもりなのかもしれないが,わたしの目には,どう考えてみてもメディアによる「暴力」以外のなにものでもない,と写る。
精確には,新聞記事を全文転記してから,わたしの主張を展開すべきであるが,そうもいかないので,その骨子だけを記しておく。説明不足の部分は,新聞で確認していただきたい。
ここでは,2点にしぼって,問題提起をしておきたい。
1点は,パレスチナの民衆が,世界貿易センタービルが崩壊するのを,躍り上がって喜ぶ映像と,米国の爆撃でアフガニスタンやイラクの子どもたちが死んだことに対し,ニューヨーク市民が「かわいそうだが,仕方がない」とインタビューに答えている映像を比較して,「二つの映像は,一見すると正反対だが,自分たちが受けた被害に対する憎しみのあまり,『相手には何をしてもかまわない』という感情にとらわれている点では,同じだ」と発言している,このこと。
2点めは,紀元前600年ごろまでの古代ギリシアでは,今の中東と同様,血で血を洗う激しい抗争が繰り広げられていた。「でも,人々はある時,『こんなことをいつまでも続けていてはだめだ』と考え,異なる部族が互いに共存できるアテネの市民社会を,100年かけてつくったのです」,という発言。
こんなことを,ほんとうに,あの見田さんがおっしゃったのだろうか,とわたしはわが目を疑った。かつて,飛ぶ鳥を落す勢いで活躍された若き俊秀が,ある事件(中沢人事)をきっかけにして,メディアから姿を消していたとはいえ,この認識の甘さはなんとしたことだろう。しかも,この内容を朝日新聞社の「校閲」の手も経ないで(経たとしたら,もっと重大),デスクは掲載を許可している,という事実。わたしのような専門家でもない人間ですら,事実認識という点で奇怪しい,とすぐにわかることが「大通り」を闊歩しているとは。もし,これが朝日新聞社の主張を代弁するものだとしたら,もっと恐ろしい。
2点めの方が簡単なので,こちらから,わたしの考えを述べておく。ホメーロスの『英雄叙事詩』(『イーリアス』『オデュッセイア』)にも,詳細にわたって「血で血を洗う激しい抗争」が描かれているし,あるいは,一連のギリシア悲劇も同じ情景を詳細に描いていることは,よく知られているとおりである。しかし,見田さんもご指摘のとおり,これらの抗争は「部族間」のものだ。ということは,お互いが「対等」の立場で戦っている。しかも,名門同士が「名誉」をかけて戦っている。逃げも隠れもしない,正々堂々と真っ正面から名のりをあげての「戦争」だ。しかし,この古代ギリシアの抗争(戦争)を「今の中東と同様」と,見田さんは認識されていらっしゃるが,大丈夫ですか,とうかがいたい。目にみえない,どこにいるかも定かではない相手に向かって,「血で血を洗う抗争」どころか,最新兵器を用いた一方的攻撃でしかない「テロとの戦い」とを混同していらっしゃるのでは・・・とわたしは危惧する。
1点めの方は,もっともっと根の深い,暴力的「地ならし」としか言いようがない。この問題をこのブログの枠組みのなかで論ずることは,むしろ,危険ですらある。だから,ここでは,その,ほんの部分だけをとりあげるにとどめたい。パレスチナの人びとの戦いの手段は,みずからのからだに爆発物を巻き付けて,イスラエルの群衆のなかに紛れ込んで,「自爆」するしかない。しかも,女性も子どもも,この「自爆テロ」に志願する。つまり,もはや,生きていても,無抵抗のままミサイル攻撃でいつか死ぬ運命にあることを自覚している。ならば,自分の意志で「死」を賭して,ひとりでも多くのイスラエル人を巻き添えにする方がいい,と覚悟を決めている。そういう人たちの「憎しみ」と,圧倒的な「安全」のもとに平和な暮しが保障され,身が守られているニューヨーク市民の「憎しみ」とを,わざわざ取り上げ,比較して,「同じだ」と断定する見田さん,ほんとうに大丈夫ですか,と再度うかがいたい。
おまけに,吉本隆明のいう「関係の絶対性」の概念をもちだしてきて,「同じだ」とおっしゃる。こんな援用のされ方をしたのでは,さすがの吉本さんも苦笑する以外にないだろう。
こういう,わたしの目からすれば,明らかな「暴論」を,朝日新聞社の記者が「実名」で書いている,という事実に唖然としてしまう。
思い起こせば,ちょうどほぼ一年前,竹内敏晴さんが亡くなられたときの「追悼文」を見田さんが,ご自分で書かれた(と記憶する)ものが,朝日新聞に大きく掲載された。このときの文章もまた,わたしの目には耐えられない,まことに粗雑きわまりないものであった。このときも,わたしは我慢できなくて,このブログをとおして,思いのたけを書かせてもらった。
これ以上のことは書かない方がいいだろう。
ブログで書くことには限界があるから・・・・。
2 件のコメント:
あの日の紙面の顔写真があんまりだったので、目をそむけて記事を読まなかっ
たのですが、ヒドイですね。実験手術のように組織を一部取り出して比 較対照
してみる。歴史も図式化してみる。これが時間のコンテクストを捨象する社会学
のやり方なんでしょうね。
あんなシリーズに顔を出して恥ずかしい。これから気をつけます。
西谷さん,コメントをありがとうございました。大いに勇気づけられました。これからもコメントがもらえるようなブログを書こうと意を強くしました。
「あんなシリーズ」などとおっしゃらずに,これからもどんどん顔を出して,正論を吐いてください。そうしないと,ますますメディアが堕落してしまいます。
アルジャジーラにしても,その存在を知っている人が少ないのですから,それだけでも十分に意味のあることだった,とわたしは高く評価しています。しかも,アメリカの仕掛けた「戦争」に関する報道が,すべてアメリカの管理下になされているという実態すら知らない人がほとんどだとおもいます。その一方的な報道の仕方の土手っ腹に風穴を開けて,攻撃される側に入り込んで,現地から実情を報道しているのがアルジャジーラだということを,もっともっと多くの人たちに知ってもらいたいと,わたしなどは思っています。
これからも,どんどんメディアに顔を出して,的確なコメントをしてくださるよう楽しみにしています。
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