2011年4月23日土曜日

岡本太郎とジョルジュ・バタイユの出会いについて。

岡本太郎生誕100年を記念した展覧会や雑誌特集,そして,著作の復刻などふたたび脚光を浴びている。岡本太郎のことは以前から気になっていたので,この際,少し勉強してみようと思い,とりあえず文庫本で手に入るものを4冊ほど買い込んできて,時間をみつけては読みはじめていた。
第一の目的は,岡本太郎とジョルジュ・バタイユとの「出会い」である。
岡本太郎の書いたものを読んでいると,かれの思想・哲学の根源にあるものはジョルジュ・バタイユに違いないという確信は得られたものの,その証拠というか,根拠がいまひとつ明確ではなかった。そこで,岡本太郎のことだから,どこかでジョルジュ・バタイユとの出会いについて書いているに違いないと思い,アンテナを張っていた。
そうしたら,ついに岡本太郎のことばで,その出会いを語っている記述を見つけることができた。そして,それがきわめて衝撃的な出会いであったことがわかった。
わたしが解説をするよりは,少し長くなるが,岡本太郎自身のことばを引いておこう。

10年以上のフランス生活はほんとうにキャフェとともにあったわけで,いちいち思い出を話すことはとても出来ない。
ぼくの一生を決定したともいえるジョルジュ・バタイユとの出会いも,考えてみればキャフェがきっかけだった。
いつものようにル・ドームでパトリック・ワルドベルグとお喋りしていると,マックス・エルンストがふらりとあらわれた。ぼくらの席に腰をおろした彼は,コーヒーを注文すると,ポケットから一枚のちらしを取り出してぼくの前に置いた。皿の上に切り落とされた豚の頭がのっている絵。いささか不吉な感じで目を惹いた。
「あさって,興味深い会合があるんだ。よかったら一緒に行かないか」
エルンストに誘われて,「コントル・アタック」(反撃)の集会に参加したのは1936年の冬のことだ。
フランス国内の反動的な国粋主義右翼,また台頭してきたヒットラーやムッソリーニの全体主義,一方,ソ連のスターリン主義の強圧的な官僚制,それらの右も左もひっくるめた反動に激しく抗議する会合だった。
セーヌ河の河岸を入った細い通り,グラン・ゾーギュスタン街の古い建物。そこの屋根裏にアトリエ風のかなり大きなスペースがあった。ジャン・ルイ・パローの持ちもので,後にピカソがそこを使って,あの巨大な「ゲルニカ」を描いたところだ。
3,40人ぐらい集まったろうか。尖鋭な知識人ばかり。アンドレ・ブルトンや,サド研究家として有名なモーリス・エイヌ等が人間の自由と革命を圧殺する全体主義を激しく非難する。やがてジョルジュ・バタイユの演説となった。
決してなめらかな話し方ではない。どもったり,つかえながら,しかし情熱がせきにぶつかり,それを乗り越えてほとばしり出るような激しさで,徹底的に論理を展開していく。
ぼくは素手で魂をひっつかまれたように感動した。
会は熱狂的にもりあがり,みんなの危機感,そして情熱がひとつになった。
解散するとき,司会者が緊迫した声で言った。
「みなさん,十分気をつけて帰って下さい。右翼が待ちぶせていて,襲われるかもしれません」
暗いグラン・ゾーギュスタン街をモンパルナッスの方に向かって,エルンストと肩を並べて歩いた。一言も口をきかずに。
それ以来,ぼくはバタイユに対する共感をソルボンヌの仲間たちや,心の通う友だちに話さずにはいられなかった。彼の書いたものも貪るように読んだ。そのうち,いつの間にかぼくのことがバタイユに伝わったらしい。
「ぜひ会いたい」というバタイユのメッセージをもらって,ぼくは心躍る思いで指定の時間に出かけた。
今でも,よく覚えている。コメディ・フランセーズの前のキャフェ・リュック。
あの古めかしい劇場の見える側の席で,彼は先に来て待っていた。最初からとてもうちとけた,心を許した雰囲気になった。ぼくはあの夜の感動を語った。
バタイユは「今日,すべての体制,状況が精神的にいかに空しくなっているか」とあの時と同じように熱っぽくトツトツと憤りをぶちまけた。そして,「体制に挑む決意をした者同士が結集しなけれはならない。力をあわせて,世界を変えるのだ。・・・・・われわれは癌のように,痛みを与えずに社会に侵入し,それをひっくりかえす。無痛の革命だ」
バタイユの眼は炎をふく出すように輝いていた。
その後ぼくはバタイユを中心に組織されたコレージュ・ド・ソシオロジー・デ・サクレ(神聖社会学研究会)のメンバーになり,表の討論に参加すると同時に,ごく限られた同志だけの秘密結社にも加わった。その第一歩がこのリュックでの,長い,突っ込んだ話しあいだったのだ。

以上。
いま,時間がないので,とりあえず,ここまで。

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