2011年4月25日月曜日

風力発電で原発40基分の発電可能・・・・・環境省が試算。

4月22日(金)の朝日新聞に,表記のような見出しの囲み記事が載っていた。これはあくまでも「試算」ではあるが,環境省としての一定の展望を開いたものとして,わたしは高く評価したい。孫正義さんとはまったく別の立場からの,いわゆる官僚からの発想ということで注目したい。こうした発想の試算がそれぞれの専門家の間ではいくらでも考えられていることも漏れ伝わってくる。しかし,マス・メディアは,いまのところほとんど関心を示そうとはしていない。なぜか?
その意味で,環境省が「試算」を公表したことはきわめて重要だと思う。これをきっかけにして,さまざまな専門家たちから「脱原発」のためのアイディアや「試算」を提案してもらえるとありがたい。そうして,「脱原発」は可能なのだ,という根拠を提示していただきたい。

じつは,わたしのブログにも,公表していない「コメント」がいくつかきている。その多くは誤解であったり,情報不足(あるいは,認識不足)による一方的なコメントだ。もっとも多いのが,「原発を止めてしまったら,電気が足りなくなってしまって,生活が維持できなくなる」という種類のもの。これは意外であった。わたしのブログのなかにも,太陽エネルギーや風力によって,かなりの電力は確保できるということは書いた。もっとも,わたしのブログを全部,きちんと読んでくださっている読者は,そんなにも多くはない。だから,たまたま読んだ読者が,そのブログだけで判断して,こういうコメントを入れることになるのだろう,と思うのだが・・・・。

それはともかくとして,こういう背景があったので,少し前の新聞にはこういう記事もでているよ,という紹介を兼ねて・・・・という次第。

もうすでに,よく知られているように,わたしたちがいま消費している電力の約30%を原発に依存している。だから,単純計算では,みんなで30%,節電すれば済む。こんなことは,みんながその気になればすぐにできる。ぜいたくに慣れきってしまった人間には多少不便があるかもしれない。しかし,ふつうの人であれば,1,2カ月すれば,すぐに慣れてしまう。たとえば,いま,実施している節電でも,すでに「7割」の人が「これでいい」と言っている(しばらく前の新聞報道による)。わたしなども,これでなんの不自由も感じない。
ヨーロッパの大都市は,全体的に,もっと暗い。もちろん,部分的に明るくしているところはあるが,都市全体としては,ずいぶん暗い。つまり,無駄な電力は使わない,という考え方が市民の間にも徹底している。わたしの住んでいたアパートでも,夜帰ってきたときには廊下も階段も真っ暗である。入り口を入ったところでスウィッチを入れると灯がつく。そして,4階の部屋まで,かなり急いで登らないと途中で消えてしまう。そうなったら,ドアの鍵穴を手さぐりで探すことになる。最初のうちは,慣れていなかったので,しばしば階段の途中で真っ暗になって慌てたことがある。しかし,これも慣れで,ほんの1カ月ほどで,もう,からだが反応してくれる。それで十分なのだ。

日本のいまの都市の灯を30%落したところで,ほとんどなんの不自由もない。それでも十分,明るい。冷暖房だって,ちょっとした工夫で,いくらでも節電はできる。この習慣をまずは身につけること。その上で,原発に替わる風力,太陽熱,地熱,水力の可能性をさぐれば,原発なしで十分にやっていける。「脱原発」などは,いとも簡単にできる,とわたしは考えている。が,なぜか,政府も財界もそちらに舵を切るということをしない。問題はここだ。

あまり報道されることもないので,わたしたちはほとんど気づかないでいるが,じつは,日本の原発技術は世界に誇るレベルなのだそうだ。だから,このノウハウをもっと高めていって,輸出しようという魂胆が隠されているという説がある。じじつ,すでに,これまでも水面下でいろいろの国の原発に技術協力をするという話が行われているともいう。もうひとつは,いまの技術をもってすれば,「原爆」を製造することはいとも簡単なのだそうだ。この話は,もうずいぶん以前からある。日本は「原爆」をひとつも保有していない国として世界に認知されているが,作ろうと思えばいつでも作れる,そういう国でもある,ということだ。

ことほど左様に,「脱原発」に到達するには,まだまだ,通過しなくてはならない関門がいくつもある。だから,もっともっと情報を開示して,みんなで議論を積み重ねていく必要がある。が,その問題と,当面,きわめて危険だとされている浜岡原発を「とりあえず,停止」させることとは別だ。モンジュの問題もある。これに連なる危険な状態に入っている原発は,あちこちにある。いな,絶えず危険な状態にあって,つねに,厳重な監視・管理が求められている,というのが現実なのだ。このことを,わたしたちはもっともっと重く受け止めるべきなのだ。

こうした事情がある中での環境省の「試算」の公表である。
やればできる。にもかかわらず,やろうとしない当局にこそ問題がある。しかし,それを容認する一般市民の方にも大きな問題がある。こうした利害・打算をどこで「思い切る」か,わたしたちは,こういうところまで視野を広げて「脱原発」の問題を考えていく必要があるだろう。

そのときに,もっとも優先されるべきことは,人間の「命」である。
しかし,こんな分かり切ったことが,いつのまにか忘れられている。それが,現代という時代だ。消費文化に慣れきってしまったわたしたちの思考力の衰弱・劣化が原因だ。まずは,ここから考えなくてはなるまい。

1 件のコメント:

Otiose Scholar さんのコメント...

私も稲垣先生同様、環境省がそういった試算を出してきたことを大きな前進と見ます。霞が関の事情は私には全くわかりませんが、私は環境省の役人にも実は原発国策で煮え湯を飲まされてきた人がいるのではないかと思うのです(先日の「“低濃度”汚染水の意図的放流」の措置も、環境省には事後通告だったという話もありますし)。(官僚とはいえ)なんといっても「環境」省ですから、再生可能エネルギーを推進したいという思いの人間もいたはずです。それが国策で抑圧されていたのが、今回の件で起死回生を図ろうと考えているのではないか、と想像しています。