ウィーンの4月26日は,東京でいえば一カ月前の3月26日程度の気温である。つまり,春の魁を言祝ぐかのように,まずは,小鳥たちが鳴き騒ぐ。まさに,鳴き騒ぐのである。こんなにたくさんの小鳥たちがどこにいたのかと思うほどの数である。しかも,けたたましい。
ウィーンの冬は長くて暗い。10月の中旬くらいから一気に冬がやってきて,もう,春まで暖かい日はない。太陽が顔をみせることもない。くる日もくる日も雲が低くたれこめて,そのはるか向こうに太陽がある。が,どの位置にあるかすら判明できない。それでも,ときおり,ぼんやりと太陽の位置がわかることがある。すると,ウィーンの市民たちは「Sonnenschein ! Sonnenschein !」(日が照っている)といって指をさして,市電のプラットフォームに立っているわたしに教えてくれる。そういう長くて暗い冬が3月の中旬くらいまでつづく。下旬に入ると,少しずつ太陽が顔をみせる日が増えてくる。そうして,雪が溶けはじめ,公園の芝生が表面にでてくる。驚いたことに公園の芝生は青々とした緑の芝生のまま現れる。枯れ木になっていた木が新芽を出しはじめる。そう,いまも鮮明に記憶していることは,リラ(ライラック)の花が春の訪れを待ちかねたかのように真っ先に咲き始めることだ。アパートの裏庭にたった一本あったリラの木が,長くて暗い冬からの解放を知らせてくれた。嬉しかったので,よく覚えている。
この長くて暗い冬の間,みることのできる鳥はカラス。毎朝,群れをなして南の方角に飛んでいき,夕刻には帰ってくる。冬の雪の積もった公園などでみかけるのもカラス。日本のカラスよりもかなり大きい。わたしの世話をしてくれたウィーン大学のDr.Prof.Strohmeyer は「あのカラスはロシア語をしゃべる」とジョークを言っていた。よく聞いてみると,春になると,みんなロシアの方に向って飛んでいくからだ,と笑っていた。
ウィーンの4月26日。東京の3月26日に相当。わたしたちがみんな桜前線の北上を首を長くして待ち望んでいる,ちょうど,そんな時期にチェルノブイリ事故に遭遇することになった。ウィーンの市民は遅い春の訪れを待ちかねたかのようにして,太陽が照ると屋外にくり出し,散策を楽しむ。そして,久しぶりの再会を喜びあって,ひとしきりおしゃべりを愉しむ。ほぼ半年の間,家の中に閉じこめられていたお年寄りたちにとっては,待ちに待った春の来訪である。子どもたちも,雪の溶けたグラウンドを駆け回りはじめるのもちょうどこの時期だ。待ち行く市民の顔も明るい。初めて経験するウィーンの冬は,長いトンネルだったように,いま思い出している。
そんな,さあ,これからだ,というときにチェルノブイリ事故は起きた。しかも,放射能の雨が降るから気をつけろ,という。楽しみにしていたお年寄りが,ふたたび家の中に閉じこもってしまった。子どもたちの体育の時間も屋外のプログラムは全部中止。空には待望の青空が広がっているのに,気分は重く,暗い。市民の明るい表情が一変してしまった。顔を合わせれば,だれかれなくチェルノブイリ事故の話が話題の中心となる。そして,お互いに情報交換をしている。それは真剣そのものだった。繁華街のあちこちに人の輪ができている。なにげなくそばに寄って話を聞いていると,突然,「お前はどう思うか」と問いかけてくる。一人でも多くの人の情報や意見を聴きながら,自分の考え方を整理していく,この国の人たちの生き方に深い感銘を受けたものだ。こういう人たちが多数を占める国なら民主主義が立派に機能するんだ,とこのときしみじみ思った。やはり「生きる」智慧に関する歴史的蓄積の質が違うのだ。
日本人は相変わらず「受け身」の人が多い。もちろん,このことの良さも十分承知した上での話だ。問題は,危機管理に対する認識の甘さにある。国家の存亡のかかった重大事態に対する決断があまりに遅い。少なくとも「脱原発」に向けて舵を切る,ただ,それだけのことだ。そこから「出直そう」となぜしない?
オーストリア政府は,チェルノブイリを経験したにもかかわらず「原発推進」政策を展開し,8基の原発を建造した。しかしながら,いざ,運転開始という段階で,国民から強い反対意見がでて,結局,国民投票にゆだねられることになった。その結果,国民は「ノー」の意志表示をし,8基の原発はそのまま「凍結」した。一度も運転されることなくいまも眠っている。これこそが民主主義の原点ではないか。
わたしたち日本国民も,いまこそ,声を挙げるべきときだ。そして,大きな議論の輪を構築していくことだ。「3・11」以前の価値観をかなぐり捨てて,「3・11」以後を生きるための,根源的な議論を。
ウィーンの冬は長くて暗い。10月の中旬くらいから一気に冬がやってきて,もう,春まで暖かい日はない。太陽が顔をみせることもない。くる日もくる日も雲が低くたれこめて,そのはるか向こうに太陽がある。が,どの位置にあるかすら判明できない。それでも,ときおり,ぼんやりと太陽の位置がわかることがある。すると,ウィーンの市民たちは「Sonnenschein ! Sonnenschein !」(日が照っている)といって指をさして,市電のプラットフォームに立っているわたしに教えてくれる。そういう長くて暗い冬が3月の中旬くらいまでつづく。下旬に入ると,少しずつ太陽が顔をみせる日が増えてくる。そうして,雪が溶けはじめ,公園の芝生が表面にでてくる。驚いたことに公園の芝生は青々とした緑の芝生のまま現れる。枯れ木になっていた木が新芽を出しはじめる。そう,いまも鮮明に記憶していることは,リラ(ライラック)の花が春の訪れを待ちかねたかのように真っ先に咲き始めることだ。アパートの裏庭にたった一本あったリラの木が,長くて暗い冬からの解放を知らせてくれた。嬉しかったので,よく覚えている。
この長くて暗い冬の間,みることのできる鳥はカラス。毎朝,群れをなして南の方角に飛んでいき,夕刻には帰ってくる。冬の雪の積もった公園などでみかけるのもカラス。日本のカラスよりもかなり大きい。わたしの世話をしてくれたウィーン大学のDr.Prof.Strohmeyer は「あのカラスはロシア語をしゃべる」とジョークを言っていた。よく聞いてみると,春になると,みんなロシアの方に向って飛んでいくからだ,と笑っていた。
ウィーンの4月26日。東京の3月26日に相当。わたしたちがみんな桜前線の北上を首を長くして待ち望んでいる,ちょうど,そんな時期にチェルノブイリ事故に遭遇することになった。ウィーンの市民は遅い春の訪れを待ちかねたかのようにして,太陽が照ると屋外にくり出し,散策を楽しむ。そして,久しぶりの再会を喜びあって,ひとしきりおしゃべりを愉しむ。ほぼ半年の間,家の中に閉じこめられていたお年寄りたちにとっては,待ちに待った春の来訪である。子どもたちも,雪の溶けたグラウンドを駆け回りはじめるのもちょうどこの時期だ。待ち行く市民の顔も明るい。初めて経験するウィーンの冬は,長いトンネルだったように,いま思い出している。
そんな,さあ,これからだ,というときにチェルノブイリ事故は起きた。しかも,放射能の雨が降るから気をつけろ,という。楽しみにしていたお年寄りが,ふたたび家の中に閉じこもってしまった。子どもたちの体育の時間も屋外のプログラムは全部中止。空には待望の青空が広がっているのに,気分は重く,暗い。市民の明るい表情が一変してしまった。顔を合わせれば,だれかれなくチェルノブイリ事故の話が話題の中心となる。そして,お互いに情報交換をしている。それは真剣そのものだった。繁華街のあちこちに人の輪ができている。なにげなくそばに寄って話を聞いていると,突然,「お前はどう思うか」と問いかけてくる。一人でも多くの人の情報や意見を聴きながら,自分の考え方を整理していく,この国の人たちの生き方に深い感銘を受けたものだ。こういう人たちが多数を占める国なら民主主義が立派に機能するんだ,とこのときしみじみ思った。やはり「生きる」智慧に関する歴史的蓄積の質が違うのだ。
日本人は相変わらず「受け身」の人が多い。もちろん,このことの良さも十分承知した上での話だ。問題は,危機管理に対する認識の甘さにある。国家の存亡のかかった重大事態に対する決断があまりに遅い。少なくとも「脱原発」に向けて舵を切る,ただ,それだけのことだ。そこから「出直そう」となぜしない?
オーストリア政府は,チェルノブイリを経験したにもかかわらず「原発推進」政策を展開し,8基の原発を建造した。しかしながら,いざ,運転開始という段階で,国民から強い反対意見がでて,結局,国民投票にゆだねられることになった。その結果,国民は「ノー」の意志表示をし,8基の原発はそのまま「凍結」した。一度も運転されることなくいまも眠っている。これこそが民主主義の原点ではないか。
わたしたち日本国民も,いまこそ,声を挙げるべきときだ。そして,大きな議論の輪を構築していくことだ。「3・11」以前の価値観をかなぐり捨てて,「3・11」以後を生きるための,根源的な議論を。
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