2011年4月1日金曜日

「芸術は爆発だ」と叫んだ岡本太郎の真意は?

 岡本太郎生誕100年を記念したイベントがあちこちで組まれていて,楽しみにしている。大きなところでは,国立新美術館(六本木)での「岡本太郎生誕100年記念展」がある。それと同調するかのように,岡本太郎の書いた本が,四冊も文庫本となってあちこちで平積みになっている。まずは,これらの本を読んでから,展覧会にでかけてみたいと思い,それらを全部買い込んできて,暇をみつけては拾い読みをしている。これがまことに楽しい。寸暇を惜しむから楽しいのだろう。時間がたっぷりあったら,それほどでもないのかも・・・。やはり,若干の不足が必要なのだ。やや,欠乏気味の方が味わいが深くなる。なにかにつけ・・・・。
 もう,ずいぶん前の話になるが,テレビのコマーシャルで岡本太郎自身が「芸術は爆発だっ!」と絶叫して,一躍有名になったコピーがある。その当時,わたしはこのコピーの意味がわからなくて,なにゆえに「芸術は爆発」なのか,と訊いてまわったことがある。美術担当の先生や書道の先生などを尋ね歩いて訊いてみたが,どうも,いまひとつよくわからなかった。どの先生方もとても熱っぽく解説をしてくたさったのだが,当時のわたしにはなんだか理解できなかった。そのまま,岡本太郎という人は不思議な人だ,というレベルの理解で,わたしのなかで悶々としていた。
 ところが,ひょんなところから,岡本太郎という名前が燦然と輝きだしたのである。それは,西谷修さんのお蔭で,ジョルジュ・バタイユという思想家の存在がわたしの視野のなかに入ってきて,どこか惹かれるものがあったのでバタイユ関連の本を集中的に読んだことがある。それらの本のここかしこに,岡本太郎の名前がでてくるのである。つまり,バタイユの主宰した研究会(かれは組織しては壊し,また,組織しては壊しを何回もくり返していた)には熱心に参加していたようで,そこでも相当の論客であったらしい。
 というわけで,わたしは岡本太郎とバタイユの接点を知ったときに,はじめて「芸術は爆発だっ!」ということの真意がわかったように思う(もっとも,これはわたしの思い過ごしにすぎないかもしれないが)。当時,パリに在住していた画家である岡本太郎がシュールレアリスム運動に参画していくのは,ごく自然な流れである。そこで,ブルトンなどとともに活動したこともなんの不思議もない。そして,初期のシュールレアリスム運動にバタイユが熱心に参画したこともよく知られているとおりである。このあたりがバタイユと岡本太郎の接点のはじまりだったのかもしれない。が,バタイユは,ブルトンらが「シュールレアリスム宣言」をしたあたりから,「それは違うだろう,イズムになったら,そこで終わりだ」という主張とともに離反していく。バタイユは,研究会も地下活動も,みずからの思想もふくめて,つねに否定をくり返しながら,終わりなきゴールに向って突き進んでいくことを信条としていたようだ。つまり,「イズム」に到達して,そこで「満足」したら終わりだ,と。岡本太郎はこのバタイユのスタンスに,こころから同調したはずである。
 その理由は,岡本太郎の書いた『青春ピカソ』(新潮文庫)を読むと,よくわかる。同時に,ピカソという人の画業の意味もよくわかる。あの恐るべきデッサンの上手さ(写実)を誇る天才少年ピカソが,青の時代をへて,つぎつぎに変身していく姿が,なにを意味していたのか,そして,ついには,立体派にまで到達し,なおも,破壊をくり返し,生涯をそれで貫き通したことの意味も,岡本太郎は自分自身の問題として受け止め,解説をしてくれる。これまでわたしが触れてきたピカソ解説とはまったく次元の違う,すばらしい解説をしてくれる。というか,むしろ,岡本太郎は自分の画家としての立場を説明するためにピカソを引いてくる。いや,途中からは,自分とピカソの区分すら怪しくなるほどに一体化してしまう。
 ピカソも岡本太郎も,その歩んだ道をひとことで表現するとしたら,「自己否定」。否定しても,否定しても,必ず頭をもたげてくるのは,近代的理性だ。この合理主義的な理性が「アート」には邪魔なのだ,と。これをぶっ壊さないかぎり,ヨーロッパに伝統的なアートに関するアカデミズムを突き崩すことはできない,とピカソは考える。だから,科学的合理主義に徹底して抵抗を示す。岡本太郎も同じだ。二人とも,「内なる理性」とのあくなき闘いがはじまる。そして,「内面」の奥底にまで触手を伸ばしていく。その奥底に開かれている世界はなにか。日本の仏教のことばを借りれば「無」だ。この「無」に到達したとき,芸術は完全に解体されて,芸術もまた「無」に帰す。ここらあたりの話は,もう少し詳しくやりたいところではあるが,またの機会にしよう。
 この「無」に到達するためには「爆発」をくり返すしかないのだ。つまり,「自己否定」の連続を。
 ここまでくると,バタイユの世界とまったくパラレルであることが,はっきりしてくる。だから,岡本太郎はバタイユの思想とも,ピカソの自己否定とも,なんの矛盾もなく,それどころか「一体化」して共振・共鳴したのだろうと,わたしは考えている。
 ここまできたときに,はじめて「芸術は爆発だっ!」と叫んだ岡本太郎の真意が,わたしなりに理解することができた。

 で,この「芸術は爆発だっ!」と,昨日のブログの最後に書いておいた「芸能の力」とは,じつは同じことなのだ。そして,これらはいずれも現代科学技術文明とは「対極」に位置づけられるべきものなのだ。この両極に位置づく二つの関係を,どのように折り合いをつけていくか,これが「3・11」以後の歴史を構築していく上で,不可欠であるとわたしは考えているのである。これは,言うまでもなく,「3・11」以後を生きるわたしたちの「スポーツ文化」を構築していく上でも,まったく同じだ。このテーマをしばらくは,折にふれて,追いかけてみたいと思う。

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