2011年4月26日火曜日

25年前のチェルノブイリ,ウィーンで経験。

25年前の今日(4月26日),わたしはウィーンにいた。文部科学省の在外研究員としてウィーン大学のスポーツ科学研究所の図書館に通っていた。毎朝,ドイツ語のトレーニングも兼ねてラジオを聞きながらの朝食。なんだか,アナウンサーの語り口がいつもと違う。明らかに興奮している。しかも,「ラジオ」「ラジオ」と叫んでいる。ドイツ語のRadioも,日本語の「ラジオ」も同じだ。だから,「ラジオがどうかしたのか」と最初は聞いていた。しかし,どうも様子がおかしい。そのうちに「ラジオエレメント」ということばを聞き取ることができた。あわててドイツ語の辞書を引いてみる。Radioelement.=放射性元素,とある。なにかあったな,と半信半疑のまま大学に向かう。

地下鉄の駅の近くで新聞を購入。大きな文字で「Radioaktivitaet」と書かれている。そして,大きな写真が載っている。なにかが爆発している。電車・バスと乗り継ぎながら,新聞を必死で読む。チェルノブイリというわたしの知らない地名が繰り返しでてくるので,ここでこの爆発が起きたのだろう,というところまでは推測ができた。途中で何回も独和辞典を引いて確認する。そして,ようやく,チェルノブイリ原子力発電所が爆発したことを知る。その結果,放射能があちこちに飛び散ったこともわかる。さらに,気流の流れによって,全ヨーロッパに大きな影響がでることもわかった。しかし,まだ,詳しい実態はよくわからない。

いつものように,図書館に直行。このころには,すでに,図書館の書庫のなかにわたし専用の机と椅子が確保できていたので,そこに向かう。しかし,図書館のカウンターの奥にいたFrau Marliese が飛び出してきて,大きな眼をまん丸に剥いて,「お前たち家族はすぐに日本に帰れ!」と絶叫している。「チケットの手配なら手伝ってやる」と本気だ。それから,わたしが新聞を手に持っていることを確認して,「全部,読んだか?」と聞く。いや,まだ,半分だけだ,とわたし。「じゃあ,早く,全部,読め」という。それで,指定席に坐って,辞書を片手に新聞を読みはじめる。徐々にことの真相がわかってくる。で,途中で,世界地図はあるか,とFrau Marliese に聞く。すぐに持ってきてくれる。そこで,チェルノブイリはどこだ,と聞いてみる。「知らないが,ソ連の西部だと思う」とFrau Marliese. 探してみたら,すぐにわかった。

「さあ,どうする?」とFrau Marliese. わたしの机の前に仁王立ちのままだ。わたしはしばらくの間,眼をつむって考える。チェルノブイリとウィーンの間はかなりの距離がある。いますぐに,どうということもなさそうだ。2,3日,情報を集めながら考えようと決心して,それをFrau Marliese に伝える。彼女は「信じられない」という顔をして,自分の席にもどっていった。しかし,わたしは内心,落ち着かない。どうしたものだろうか,と考える。が,その情報があまりに少なすぎる。そこで,Dr.Prof.Strohmeyer  の研究室を尋ねてみる。「面接時間ではないが,ちょっと,相談したいことがあるのだがいいか」と断りを入れて,なかに入る。いつもニコニコ顔の人が今日はいつもと違ってきびしい顔をしている。わたしのたどたどしいドイツ語で「チェリノブイリの・・・・」といいかけただけで,かれはすぐに理解して,話を引き取って,かれのわかっている範囲の情報をわたしにわかりやすく教えてくれた。また,なにかあったら情報はすぐに流してやる,とも言ってくれた。

とりあえず,一旦,アパートに引き返して,娘が学校から帰るのを待った。そして,家族でこれからどうするかを相談した。しかし,だれも日本に帰るとは言わない。じゃあ,これもまた勉強のうちか,と判断して残ることにした。それからの生活は,予測のできないことがつぎつぎに起きた。まずは,すーバー・マーケットから野菜が姿を消した。しかし,驚いたことに,3日後には,イタリア産の野菜が山のように積んであった。毎日,毎日,ラジオを聞き,新聞を読む,という生活がはじまった。このころからドイツ語の読解力が急速に高まってきた。やはり,必要がことばを学習させる。そして,ウィーンの人たちのやさしさに触れることも多くなった。Gemuetlichkeit(居心地の良さ)ということばを覚えたのもこのころだ。そして,このことばを発するとウィーンの人たちはみんな笑顔になることも知った。ときにはハグしてくれる人もいた。

「4月26日」。わたしの誕生日の一カ月あとの日。だから,忘れもしない。ウィーンは一時的に「屋内避難」の態勢に入った。通学・通勤はこれまでどおりであったが,できるだけ,屋外には出ないように,という通達があった。学校の体育の授業は全部室内になった。休み時間も外で遊んではならない,ということになった。いろいろのことを思い出す。あれから「25年」が経過したわけだ。そしていま,こんどは,日本の国内で,チェルノブイリが起きてしまった。思いは複雑である。ウィーンの友人たちは,25年前と同じように,じっと日本の「フクシマ」に思いを馳せているに違いない。距離こそ遠いとはいえ,同じ人類としての悲劇を分かち合うようにして。

原発事故に対する感性は,ヨーロッパ人と日本人とではかなりの差があるように思う。かれらの反応はじつに直截的だ。「すぐに,ドイツでもスイスでも逃げて来い。受け入れ準備はできている」と3月12日にはドイツの友人からメールがとどいた。そして,ドイツでは,すぐに25万人という「脱原発」のデモが展開した。それに比べたら日本人の反応は遅い。もっとも,それどころではない現実への対応が優先されたともいえるが・・・・。

ナガサキ・ヒロシマを経験して,いままた,フクシマを経験した。いくら呑気な日本人とはいえ,こんどというこんどは「脱原発」を覚悟した,とわたしは受け止めている。そして,「脱原発」の運動があちこちで展開されている。にもかかわらず,その報道は,なぜか,抑制されてしまっている。この「からくり」はいったいどうしたことか。なぜ,もっとありのままの報道がなされないのか。いつのまにか「大本営」ができあがっていて,それにしたがわなくてはならないような雰囲気ができあがってしまっている。そして,多くの人が不思議とは思わない。このことが恐ろしい。

ウィーンでのチェルノブイリ経験は3カ月ほどで終わったように記憶する。少なくとも,夏休みには旅行にでることができた。わたしたちは,オランダ,ベルギー,イギリスを経由して8月に帰国した。

このウィーンでの経験をいましみじみと思い起こしている。ウィーンの人たちはもっと精確な情報を得ていたように思う。それが,わたしにもきちんと伝わってきた。だから,ウィーンの人たちはほとんど政府に対する不信感はなかったように思う。

それに引き換え,わが国のこの惨状は・・・・。情けない。

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