以前,このブログで,「節電に協力する店舗,協力しない店舗」を書いた。そのなかの「協力しない店舗」の某焼き肉店が昨夜から,「協力する店舗」になっていた。正面の煌々と輝いていた大きな店名の入ったネオンが消え,駐車場への入り口の小さなネオンだけになっていた。店内もこころなしか,いつもよりは暗い感じ。どこかから,プレッシャーがかかったのか,それとも自主的な判断だったのか,それはわからない。これで,わたしの事務所から宮前平の駅までの店舗のネオン照明は全部,消えた。それでもどの店舗も休むことなく営業をつづけている。それどころか,ファミリー・レストランなどはいつもより繁盛しているようにみえる。
この通りに,最近,リフォーム屋さんが開店した。ここも,開店したときに,なぜ,こんなに大きなネオンの看板を掲げなくてはいけないのか,とびっくりするほどの大きくて明るいネオンの看板が輝いていた。あまりの派手さに,さすがに驚いたものである。しかし,「3・11」以後は消して,つつましく営業をしている。夜遅くまで頑張っている店らしい。わたしはいつも定時(午後7時30分に事務所をでる)にこの通りを歩いて駅に向う。昨夜は,この店の一室で会議をやっていた。通りに面した横長の部屋なので,なかが丸見え。ほぼ,20人ほどがテーブルに着席している。その部屋の灯が,これ以上に明るくすることはできないだろう,というほどの明るさなのである。しかも,会議のためか,となりの部屋にはだれもいない。にもかかわらず,同じように,かぎりなく明るい。これまでは,カーテンがかかっていたりして,あまり気にはならなかった。が,昨夜は,カーテンも開け放って,まるみえだった。だから,この明るさはなんだ,とわかった。
田園都市線も,車内の蛍光灯を間引きして,ほんの少しだけ暗くなっている。が,まだ,明るい。トンネルが多いラインなので(途中までは地下鉄),昼間でもある程度の車内の照明は必要なのだが,もっと少なくていい。明るさに慣れきってしまったわたしたちの感覚を是正するのはたいへんなことではあるが,できるところから少しずつ慣らしていくしか方法はない。これまでが明るすぎたのだから。必要以上に明るくする店舗が,あるときから,急激に増えつづけてきたように思う。なんで,こんなに明るくするのだろうか,と首をかしげたことを記憶している。以後,みんな「右へ倣え」で,どこもかしこも明るくなってきた。そして,それがいつのまにか「当たり前」になってしまった。「ゆで蛙」と言われる所以のひとつがこれである。
「電気を節約する」というきわめて重要なことを,わたしたちは忘れて生活する習慣が身についてしまっている。今日の新聞のコラムにも書いてあったが,日本の地下鉄の駅が暗くなったときに,あるフランス人が「これがパリの地下鉄の明るさだ。懐かしいなぁ」と述懐したという。あまり多くはないわたしのヨーロッパ滞在経験からは,ヨーロッパの地下鉄の駅はなんと暗いことか,というまったく逆の感想をもっていた。しかし,この3週間ほどの間に,どんどん慣れてきて,これでなんの不自由もないということもわかってきた。慣れてしまえば,それが当たり前となる。
地下鉄の駅の明るさは「〇〇ルックス以下」とする。ビジネス・オフィスの明るさは「〇〇ルックス」以下とする。エスカレーターは・・・・という具合に「節電」しようと思えばいくらでもできる。自宅も同様だ。あちこちの部屋の電気をつけっぱなしにする悪い習慣が身についてしまっているが,これは,すぐにやめよう。洗濯機も3回に1回は手で洗おう(わたしの事務所には洗濯機がないので,全部,手で洗っている。意外にかんたんに洗える。よごれたところを重点的に洗うこともできる。水も電気も節約できる)。男性も洗濯をしよう。
経済産業省は,ようやく重い腰を上げて,「夏の節電対策」を立ち上げようとしている。それも大事だが,それよりも,まずは,いま,すぐに,できる節電から始めよう。もう,政治家は無能であるということがよくわかったし,役人も東電に対しては手も足もでないということもよくわかったので,あとは,わたしたちで自主的にできることをやって,とことん「節電」をし,その実績を見せつけて,原発廃止の根拠を提示しよう。東電も政府も役人も口を揃えて「電力が足りなくなる」という。いままでと同じライフ・スタイルを維持していこうとしたら「足りなくなる」だけの話。「3・11」以前のライフ・スタイルが狂っていたのだ,ということを確認する方が先決。そのライフ・スタイルをほんのちょっと糾すだけのこと。そうすれば電力は「足りる」。
東電は電気をたくさん売って儲けたいだけの話。その戦略に乗せられたわたしたちがアホだった。その戦略に,政治家も官僚も学者・研究者も,みんな乗せられてしまったのだ。政治家は政治献金欲しさに,官僚は天下り先を確保するために,そして学者・研究者は研究費欲しさに(原発の「安全性」に与すれば莫大な研究費を支給してくれる。テレビに登場した専門家たちはみんなこういう人たちばかり)。みんな「私利私欲」に凝り固まった人間ばかりだ。それが,こんにちの原発事故の悲劇を産んだ元凶だ。
もう一度,原点に立ち返って,「生きる」ことの意味や方法を初手から考え直そう。そして,無駄を徹底的にはぶこう。そして,大量生産・大量消費などという狂った歯車から離脱しよう。
そのための第一歩。「節電」をしよう。そして,「原発」を廃止しよう。
この通りに,最近,リフォーム屋さんが開店した。ここも,開店したときに,なぜ,こんなに大きなネオンの看板を掲げなくてはいけないのか,とびっくりするほどの大きくて明るいネオンの看板が輝いていた。あまりの派手さに,さすがに驚いたものである。しかし,「3・11」以後は消して,つつましく営業をしている。夜遅くまで頑張っている店らしい。わたしはいつも定時(午後7時30分に事務所をでる)にこの通りを歩いて駅に向う。昨夜は,この店の一室で会議をやっていた。通りに面した横長の部屋なので,なかが丸見え。ほぼ,20人ほどがテーブルに着席している。その部屋の灯が,これ以上に明るくすることはできないだろう,というほどの明るさなのである。しかも,会議のためか,となりの部屋にはだれもいない。にもかかわらず,同じように,かぎりなく明るい。これまでは,カーテンがかかっていたりして,あまり気にはならなかった。が,昨夜は,カーテンも開け放って,まるみえだった。だから,この明るさはなんだ,とわかった。
田園都市線も,車内の蛍光灯を間引きして,ほんの少しだけ暗くなっている。が,まだ,明るい。トンネルが多いラインなので(途中までは地下鉄),昼間でもある程度の車内の照明は必要なのだが,もっと少なくていい。明るさに慣れきってしまったわたしたちの感覚を是正するのはたいへんなことではあるが,できるところから少しずつ慣らしていくしか方法はない。これまでが明るすぎたのだから。必要以上に明るくする店舗が,あるときから,急激に増えつづけてきたように思う。なんで,こんなに明るくするのだろうか,と首をかしげたことを記憶している。以後,みんな「右へ倣え」で,どこもかしこも明るくなってきた。そして,それがいつのまにか「当たり前」になってしまった。「ゆで蛙」と言われる所以のひとつがこれである。
「電気を節約する」というきわめて重要なことを,わたしたちは忘れて生活する習慣が身についてしまっている。今日の新聞のコラムにも書いてあったが,日本の地下鉄の駅が暗くなったときに,あるフランス人が「これがパリの地下鉄の明るさだ。懐かしいなぁ」と述懐したという。あまり多くはないわたしのヨーロッパ滞在経験からは,ヨーロッパの地下鉄の駅はなんと暗いことか,というまったく逆の感想をもっていた。しかし,この3週間ほどの間に,どんどん慣れてきて,これでなんの不自由もないということもわかってきた。慣れてしまえば,それが当たり前となる。
地下鉄の駅の明るさは「〇〇ルックス以下」とする。ビジネス・オフィスの明るさは「〇〇ルックス」以下とする。エスカレーターは・・・・という具合に「節電」しようと思えばいくらでもできる。自宅も同様だ。あちこちの部屋の電気をつけっぱなしにする悪い習慣が身についてしまっているが,これは,すぐにやめよう。洗濯機も3回に1回は手で洗おう(わたしの事務所には洗濯機がないので,全部,手で洗っている。意外にかんたんに洗える。よごれたところを重点的に洗うこともできる。水も電気も節約できる)。男性も洗濯をしよう。
経済産業省は,ようやく重い腰を上げて,「夏の節電対策」を立ち上げようとしている。それも大事だが,それよりも,まずは,いま,すぐに,できる節電から始めよう。もう,政治家は無能であるということがよくわかったし,役人も東電に対しては手も足もでないということもよくわかったので,あとは,わたしたちで自主的にできることをやって,とことん「節電」をし,その実績を見せつけて,原発廃止の根拠を提示しよう。東電も政府も役人も口を揃えて「電力が足りなくなる」という。いままでと同じライフ・スタイルを維持していこうとしたら「足りなくなる」だけの話。「3・11」以前のライフ・スタイルが狂っていたのだ,ということを確認する方が先決。そのライフ・スタイルをほんのちょっと糾すだけのこと。そうすれば電力は「足りる」。
東電は電気をたくさん売って儲けたいだけの話。その戦略に乗せられたわたしたちがアホだった。その戦略に,政治家も官僚も学者・研究者も,みんな乗せられてしまったのだ。政治家は政治献金欲しさに,官僚は天下り先を確保するために,そして学者・研究者は研究費欲しさに(原発の「安全性」に与すれば莫大な研究費を支給してくれる。テレビに登場した専門家たちはみんなこういう人たちばかり)。みんな「私利私欲」に凝り固まった人間ばかりだ。それが,こんにちの原発事故の悲劇を産んだ元凶だ。
もう一度,原点に立ち返って,「生きる」ことの意味や方法を初手から考え直そう。そして,無駄を徹底的にはぶこう。そして,大量生産・大量消費などという狂った歯車から離脱しよう。
そのための第一歩。「節電」をしよう。そして,「原発」を廃止しよう。
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