このところ朝日新聞の悪口ばかり書いてきましたので,少しはいいところもあるということのご紹介。まあ,大きな組織ですから,冴え渡っているような部局と,ほんとうにもうどうしようもないほど腐ってしまっている部局とあるのは仕方がないのかもしれません。
少し前の記事になってしまいますが,4月23日(土)の「耕論」オピニオン(13面全面)の企画として「いまこそ歌舞音曲」という見出しのコラムが掲載されました。このコーナーは時折,ワンダフルなのですが,確率は微妙です。が,期待のコーナーであることだけは間違いありません。スタッフのみなさんにはこれからも思い切った「耕論」を企画していただきたいと思っています。
さて,「いまこそ歌舞音曲」
論者は麿赤児(まろあかじ)さん(舞踏家),松尾葉子さん(指揮者),大崎洋(ひろし)さん(吉本興業社長)の三人。それぞれの立場から歌舞音曲を語っているのだが,残念ながら,このテーマでまともなことを言っているのは麿赤児だけ。かれには舞踏をささえる思想が,きちんと語られていて「いまこそ歌舞音曲」というテーマに応えている。が,あとのお二人は,ちょっとポイントがづれてしまっている。松尾さんは「頑張って演奏をするので,どこかの局が一日中電波で流してくれないかしら」などと,きれいごとを述べている。そうではないだろう。オーケストラの楽団員が一人ずつ,あるいは,数人で,現場に立って演奏することではないか。避難所にいる人たちに「生演奏」を聞いてもらうことではないのか。それを,こちらにいて演奏するからどこぞの放送局が流して,それを被災者の人たちに聞いてもらいたい,という。あれあれ,と思ってしまう。大崎さんは,しっかりと商売人根性まるだしの吉本興業の宣伝をしている。それをそっくりいただいてそのまま整理した「聞き手,編集委員・鈴木繁」という署名が恥ずかしい。それは「聞き手」という人の問い方,つまり,その人の思想が問われているということ。つまり,「いまこそ歌舞音曲」というテーマをとりあげたコンセプトの掘り下げができていないということが露呈してしまっている。だから,読後に印象に残るものがなにもない。ただ,麿赤児さんはもっともっと深い思想を語ったはずなのに,それをすくい取るだけの力量が足りない,と読んでいて感じた。
あれあれ,褒めるつもりだったのに,いつのまにかきびしい口調になってしまいました。申し訳ありません。ボケ老人の戯言だと思ってお聞き流しください。
正直にいえば,今回の企画は,アイディアはよかったものの,人選ミスというところでしょうか。「いまこそ歌舞音曲」という素晴らしいアイディアがでてきたのですから,それにふさわしい人材を選ぶべきだったのではないか,とわたしは思います。たとえば,今福龍太さんのような人類学者が,どのようにコンパクトにこの問いに応えるのか,わたしは聞きたかった。あるいは,鷲田清一さんのような哲学者はどのように応答するのか,という具合です。
「歌舞音曲」は悲惨な災害に出会ってしまった被災者のためにこそ,力を発揮するものだとわたしは考えています。それも,遠くからラジオやテレビで送り届けるのではなくて,「じかに」触れ合うことが大事だと思っています。ですから,できるだけ多くの芸能者,芸人,芸術家と言われる人が,被災者の前に立ってほしいのです。これは並みの芸人ではできない至難の業だと思います。つまり,相当の覚悟をもって立たないと,下手をすれば,怒鳴り散らされ,追い返されてしまいます。そこを踏みとどまれるだけの力をもった芸こそがほんとうの「芸能」である,とわたしは考えます。そういう真剣勝負をする場でもあるわけです。
断わっておきますが,芸能の世界は,科学的合理主義の世界をもかんたんに飲み込んでしまうほどの,恐るべきパワーをもった「非合理」の世界です。ここには,さまざまな約束事もあれば,価値観の大転換もあれば,八百長もあります。その上での真剣勝負という複雑な構造をもっています。だから,人間の深層に宿るこころの琴線に触れることができるわけですし,ふだんは眠ったままにされている無意識の世界にまで分け入ることができるわけです。
わたしなら,「いまこそ芸の力を」と言いたいところです。大相撲もまた,このレベルで語られるべきだとわたしは考えています。ですから,いまこそ,おすもうさんたちは手分けして被災地に立つべきだ,と主張しているわけです。
でもまあ,こんなブログを書くことしか能のない人間に偉そうなことは言えません。しかし,マスメディアで発言する人にはそれなりの覚悟をもっていただきたいし,それを「聞き手」として記事をまとめる人たちはもっと「覚悟」をもっていただきたい,という次第です。記事がまことに安易。中味がほとんどない,垂れ流し記事。しかも,このレベルの記事でも多くの人たちが読んで,大きな影響を受けるわけです。このことを考えると責任は重大です。つまり,ものごとの本質をごまかしてしまうことに大きな貢献をしてしまいます。もっと言ってしまえば,権力の思うつぼです。ジャーナリズムはそうではないでしょう。
いつも言うことですが,朝日新聞には,かつてのわたしの若き時代の「いい新聞」になってほしい,というわたしの深い愛を籠めた期待があります。ですから,ついつい,きびしい批判になってしまいます。わたしの意とするところをどうぞおくみ取りください。そして,期待に応える記事が増えてくることを,こころ待ちにしています。
少し前の記事になってしまいますが,4月23日(土)の「耕論」オピニオン(13面全面)の企画として「いまこそ歌舞音曲」という見出しのコラムが掲載されました。このコーナーは時折,ワンダフルなのですが,確率は微妙です。が,期待のコーナーであることだけは間違いありません。スタッフのみなさんにはこれからも思い切った「耕論」を企画していただきたいと思っています。
さて,「いまこそ歌舞音曲」
論者は麿赤児(まろあかじ)さん(舞踏家),松尾葉子さん(指揮者),大崎洋(ひろし)さん(吉本興業社長)の三人。それぞれの立場から歌舞音曲を語っているのだが,残念ながら,このテーマでまともなことを言っているのは麿赤児だけ。かれには舞踏をささえる思想が,きちんと語られていて「いまこそ歌舞音曲」というテーマに応えている。が,あとのお二人は,ちょっとポイントがづれてしまっている。松尾さんは「頑張って演奏をするので,どこかの局が一日中電波で流してくれないかしら」などと,きれいごとを述べている。そうではないだろう。オーケストラの楽団員が一人ずつ,あるいは,数人で,現場に立って演奏することではないか。避難所にいる人たちに「生演奏」を聞いてもらうことではないのか。それを,こちらにいて演奏するからどこぞの放送局が流して,それを被災者の人たちに聞いてもらいたい,という。あれあれ,と思ってしまう。大崎さんは,しっかりと商売人根性まるだしの吉本興業の宣伝をしている。それをそっくりいただいてそのまま整理した「聞き手,編集委員・鈴木繁」という署名が恥ずかしい。それは「聞き手」という人の問い方,つまり,その人の思想が問われているということ。つまり,「いまこそ歌舞音曲」というテーマをとりあげたコンセプトの掘り下げができていないということが露呈してしまっている。だから,読後に印象に残るものがなにもない。ただ,麿赤児さんはもっともっと深い思想を語ったはずなのに,それをすくい取るだけの力量が足りない,と読んでいて感じた。
あれあれ,褒めるつもりだったのに,いつのまにかきびしい口調になってしまいました。申し訳ありません。ボケ老人の戯言だと思ってお聞き流しください。
正直にいえば,今回の企画は,アイディアはよかったものの,人選ミスというところでしょうか。「いまこそ歌舞音曲」という素晴らしいアイディアがでてきたのですから,それにふさわしい人材を選ぶべきだったのではないか,とわたしは思います。たとえば,今福龍太さんのような人類学者が,どのようにコンパクトにこの問いに応えるのか,わたしは聞きたかった。あるいは,鷲田清一さんのような哲学者はどのように応答するのか,という具合です。
「歌舞音曲」は悲惨な災害に出会ってしまった被災者のためにこそ,力を発揮するものだとわたしは考えています。それも,遠くからラジオやテレビで送り届けるのではなくて,「じかに」触れ合うことが大事だと思っています。ですから,できるだけ多くの芸能者,芸人,芸術家と言われる人が,被災者の前に立ってほしいのです。これは並みの芸人ではできない至難の業だと思います。つまり,相当の覚悟をもって立たないと,下手をすれば,怒鳴り散らされ,追い返されてしまいます。そこを踏みとどまれるだけの力をもった芸こそがほんとうの「芸能」である,とわたしは考えます。そういう真剣勝負をする場でもあるわけです。
断わっておきますが,芸能の世界は,科学的合理主義の世界をもかんたんに飲み込んでしまうほどの,恐るべきパワーをもった「非合理」の世界です。ここには,さまざまな約束事もあれば,価値観の大転換もあれば,八百長もあります。その上での真剣勝負という複雑な構造をもっています。だから,人間の深層に宿るこころの琴線に触れることができるわけですし,ふだんは眠ったままにされている無意識の世界にまで分け入ることができるわけです。
わたしなら,「いまこそ芸の力を」と言いたいところです。大相撲もまた,このレベルで語られるべきだとわたしは考えています。ですから,いまこそ,おすもうさんたちは手分けして被災地に立つべきだ,と主張しているわけです。
でもまあ,こんなブログを書くことしか能のない人間に偉そうなことは言えません。しかし,マスメディアで発言する人にはそれなりの覚悟をもっていただきたいし,それを「聞き手」として記事をまとめる人たちはもっと「覚悟」をもっていただきたい,という次第です。記事がまことに安易。中味がほとんどない,垂れ流し記事。しかも,このレベルの記事でも多くの人たちが読んで,大きな影響を受けるわけです。このことを考えると責任は重大です。つまり,ものごとの本質をごまかしてしまうことに大きな貢献をしてしまいます。もっと言ってしまえば,権力の思うつぼです。ジャーナリズムはそうではないでしょう。
いつも言うことですが,朝日新聞には,かつてのわたしの若き時代の「いい新聞」になってほしい,というわたしの深い愛を籠めた期待があります。ですから,ついつい,きびしい批判になってしまいます。わたしの意とするところをどうぞおくみ取りください。そして,期待に応える記事が増えてくることを,こころ待ちにしています。
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