2011年4月29日金曜日

節電はもう終わりなの? まばゆいばかりの夜の街の明るさ。

今朝,家をでるとき郵便局で荷物を発送しようと思ってもち出したら,今日はお休みだという。ああ,ついに惚けたか,と反省。今日から大型連休の始まりだという。
溝の口の駅周辺も人出が多くびっくり。わたしはいつものとおり,鷺沼の事務所に向かう。一日,予定どおりの仕事をして,夕刻,午後7時30分に帰路につく。
鷺沼駅の改札口で,あまりの明るさに驚く。えっ,こんなに明るくするの?いつのまにか節電の暗さに慣れてしまって,それが当たり前になってしまった。だから,びっくり,である。しかし,あちこちの蛍光灯を確認してみたら,まだ,全部点けているわけではない。しかし,プラットフォームに降りたら,すべての蛍光灯が点灯していて,明るいのなんの,びっくり仰天である。しかも,階段を歩いて降りてきたのに(ここの階段はどこの駅よりも長い),振り返ってみると,昇りも降りもエスカレーターが動いているではないか。この時間帯は,人もまばら。エスカレーターに乗っている人は,ほとんどいない。なのに,動いている。
溝の口の駅も同じ。で,よくみると,駅前の灯が全体的に明るい。いつもの丸井の1階を通り抜けようと思って階段を降りていったら,入り口周辺がいつもよりもはるかに明るい。店内はもっと明るい。おやっ?,なにがあったのだろうか,と考えてしまう。もう,びっくりするほど明るい。真ん中あたりで立ち止まって,点灯している蛍光灯や電灯を数えてみた。これでもまだ3割くらいは消えている。そうか,3割くらい消えていても,こんなに,まばゆいばかりに明るい。自宅のあるマンションの一階にある不動産会社の灯も今日はとびきり明るい。でも,全部の電灯が点いているわけではない。
人間の慣れというものはすごいものだ。いつのまにか,あの暗さに慣れきってしまっている。もう,この明るさで十分だ。もう少しだけ,暗くていい。その方がなんだか落ち着く。あまりに明るいとこちらの気持ちが煽られてしまって,尋常ではなくなってしまう。そうか,これまでこの明るさに狂わされてしまっていたのだ。節電のときの暗さでいい。その方が気持ちが引き締まっていて,落ち着く。
われわれ一般家庭にはなんの連絡もないが,鉄道や百貨店やすーバー,コンビニ,などの商店にはなにか通達でもでているのだろうか。そうでなければ,こんなに足並みを揃えるようにして,一斉に明るくなることはない。またぞろ,どこかから,電気を使え,という指令でもでているのではないか。使っていい,ではない。「使え」の指令だ。
たぶん,節電がここまで徹底するとは「当局」は予想だにしなかったのではないか。しかし,予想をはるかに越えるほどの節電が行われた。一般家庭もふくめて,みごとだった,とわたしは思う。ここまで節電されると,必要な電気料金が回収できなくなってしまう。そこで一気に方針の転換に踏み切ったか。もし,そうだとしたら,わたしたちは本気で考えなくてはならない。
わたしたちは,「3・11」以後,とても大事なことを学んだ。そのひとつは,無駄遣いはしない。日常生活のあらゆる場面で「消費」することはいいことだ,経済が活性化する,と教えられてきた。電気も使い放題,あちこち必要以上に明るくして,その快適さに酔いしれていた。しかし,この夜の明るさは異常だったのだ。この明るさが(もちろん,過剰な電気製品の氾濫もふくめて)「原発推進」の原動力になっていたのだ。,それではいけない,ということを今回はこころの底から学んだ。わたしたちは節電してもなんの問題もない,ということをこの短い間に学習した。このことを忘れてはならない。なぜなら,これからなし崩し的にどんどん明るくなっていくだろう,と思われるからだ。そこには,恐るべき陰謀が隠されている。
電気をどんどん消費させて,電力が足りない,という状況をつくりたい人たちがいる。
その人たちの陰謀が,すでに,明るさとなって現れた,とわたしは勘繰る。
このゴールデン・ウィークの間になにかが起こる。そして,ゴールデン・ウィークが終わったら,もう,もとの木阿弥。以前の,過剰な明るさにもどっているのではないか。
これまでの明るさの7割で十分だ。それでも明るすぎると今夜は感じた。
この感覚をしっかりと研ぎ澄ませて,ゴールデン・ウィーク明けを見届けることにしよう。
みなさんも,よろしくお願いいたします。

0 件のコメント: