2011年5月29日日曜日

海女さんは海のなかに溶け込んでいく=「内在」する存在。

海女さんのことを勉強して帰ってきました。
5月28日(土)午後1時から,山本茂紀・和子さんご夫妻のご尽力により,鳥羽市の「海の博物館」会議室で海女さんの勉強会(「ISC・21」5月鳥羽例会・世話人竹谷和之)が行われました。幸いにも,地元の生き字引のような方がお二人,そして,博物館で専門職としてお仕事をしていらっしゃる若い方がお二人,さらに,三重県博物館の学芸員の方がお一人と,いつもにもまして盛会でした。今回は,われわれの仲間うちから3人が代表して質問をし,それに答えていただくという方法をとりました。とてもいい雰囲気でQ&Aが繰り広げられました。お蔭で多くのことがわかってきて,とてもいい勉強会になりました。

そのなかの,わたしにとっての収穫の一部をご紹介しておきたいとおもいます。

それは,このブログのタイトルに書いたことです。
つまり,海女さんは海のなかに溶け込んでいく存在であるということ,すなわち,海と一体化し海に「内在」する存在であるということです。このことは,わたしにとってはかけがえのない大きな収穫でした。なにか,海女さんの世界というものが,わたしのなかにすとんと落ちてきました。なんともはや快感すのものでした。

どういうことかというと,以下のとおりです。
海女さんは,海に入っていくときに,地上を歩いているときの呼吸のまま,すっと入っていくといいます。つまり,わたしたちが海に潜るときにやるような大きな息の吸い込みはしない,ということなのです。いま,一緒に話をしていたのに,ふと気づくともう海のなかに入っている,というのです。この自然体こそが,海に入る海女さんの身体であり,こころである,というわけです。

海に入ってもすぐに深く潜るということはしない,ともいいます。徐々に,徐々に,からだを海に慣らしながら深く潜っていくということです。そして,平常心で気持ちが落ち着いているときには,あわびがどこにいるかがわかる,つまり,よく「みえる」といいます。駄目なときは,いくら頑張ってもなにも「みえない」ので,そういうときは無理をしないで海と戯れていることにしている,とも。この「みえる」「みえない」という表現が,わたしにはピンとくるものがあって,おおいに納得でした。

さらに,あわびは身の危険を感じると瞬間的に岩に吸いついてしまう,そうすると,どんなに頑張ってもあわびを岩から引き離すことはできないのだそうです。だから,海女さんは,あわびに危険を感じさせないように,さりげなく接近するといいます。そして,あわびが気を許している瞬間に,ノミ(オオノミ,コノミ,カギノミの3種がある)を入れて岩からはがしとります。この間合いのとり方がとても大事だといいます。

ということは,海女さんの泳ぎはできるだけ脱力して,へらーっと海水と戯れているような泳ぎになります。このことが酸素消費を少なくすることになり,長い間,海中にいることができる,というわけです。この海女さんの「潜る身体」は,近代スポーツの競泳選手の「早く泳ぐ身体」とはまるで正反対です。まるで海草が海中に浮かんでいるように,海女さんの身体も海中をただよわせている,といっていいでしょう。つまり,海のなかよ溶け込んでいく身体,海と一体化する身体,すなわち,「水の中に水があるように存在する」(バタイユ)そういう身体,もっといってしまえば,「内在」する身体(あるいは「存在」)というわけです。

この状態は,瞑想する身体,坐禅する身体,悟りの身体,自他の区別のない身体,つまり,他者のなかに溶け込んでいく身体,とほとんど違いがありません。

海女さんという人たちの身体,あるいは,存在はそういう世界を生きている,ということです。このことが,今回の勉強会での,わたしにとっての大きな収穫でした。そして,とても大きな喜びでした。また,ひとつ,わたしの思考の世界が広がりました。

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