2011年5月17日火曜日

ヘーゲルの『精神現象学』からやり直し・「3・11」以後のスタンスのために。

いまさら・・・という気もしないわけではありませんが,ここらでもう一度,われとわが身の立ち位置を「0(ゼロ)」から再度チェックし直してみようと思い立ちました。「3・11」は,日本という国がまったく新しく生まれ変わる,大きなターニング・ポイントになるだけでなく,おそらく,世界史に記録されるべき大きな歴史事象になる,と考えるからです。当然のことながら,その一翼を担うひとりの日本人として,いかに考え,いかに行動し,いかにその思想・哲学を鍛え直していくのか,がわたし自身に問われている喫緊の課題である,と考えるからです。それで,まずは,ヘーゲルの『精神現象学』(長谷川宏訳)をとり出して読みはじめています。

なぜ,ヘーゲルからなのか。
その答えは,ジョルジュ・バタイユをより深く理解するため。
さらには,『般若心経』の読解を深めるため。
もっと踏み込んでおけば,道元の『正法眼蔵』と西田幾多郎の世界に分け入るため。
そのキー・ワードは「命」。あるいは,人が「生きる」とはどういうことなのか。
そこから,まったく新しいスポーツ史・スポーツ文化論を立ち上げること。

このことと「3・11」以後を生きるための理論武装は,わたしにとっては表裏一体。

もう少しだけ踏み込んでおきましょう。
じつは,直近の課題は『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ)の読解にあります。すでに,何回も読み返しては考え,ときにはこのブログにも連載で書いてみたり,あるいは,神戸市外国語大学での集中講義でも取り上げたりして,熟考を重ねてきています。そして,このたびの「3・11」以後のできごとと真っ正面から向き合って,考えるうちに,やはり,この『宗教の理論』に立ち返って考えることが,みずからのスタンスを再確認する上で不可欠である,と考えた次第です。その上に,ありがたいことに,西谷修さんからの提案で,6月の「ISC・21」の定例研究会でこの『宗教の理論』の読解にお付き合いくださる,というのです。

お断りするまでもなく,『宗教の理論』の冒頭には,アレクサンドル・コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』の一節が引用されています。しかも,この引用文のなかに,バタイユがなにゆえにこの『宗教の理論』を書いたか,というもっとも重要な鍵がこめられています(と,わたしは理解しています)。ここにこめられている内容は,これもわたしの理解にすぎませんが,人間が「動物性」の世界から離脱して「人間性」の世界に「横滑り」をしはじめる契機はなにか,ということをヘーゲルから読み取ろうとしたバタイユの痕跡です。しかも,コジェーヴの読解をとおして,です。もちろん,バタイユをヘーゲル哲学に(それも『精神現象学』に)導いたのはコジェーヴであったわけですが。

バタイユ自身も,ヘーゲルがいたお蔭で,自分の思想・哲学の立ち位置を明確にすることができた,と語っています。だとしたら,バタイユに,それほどの影響を与えたヘーゲル哲学とはいかなるものなのか,ということを確認しておかなくてはなりません。しかも,それを自分のことばで語れるようにしておかなくてはなりません。ヘーゲルの「知」にたいして,バタイユは「非-知」を主張します。このことの意味するところはなにか,を考えてみたいのです。

そのための第一歩が『精神現象学』読解です。もう何回も読んではいるのですが,自分のことばで語ることができません。それは,読んだことにならない,というのがわたしの考えです。ですから,どうしても,自分で「読んだ」といえるところまで理解を深めておきたい,という次第です。

これから,ちょくちょく,『精神現象学』読解・試論のようなものをこのブログでも書いていければいいなぁ,と思っています。どうぞ,よろしくお願いいたします。

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