2011年5月11日水曜日

「原発安全神話」は政・官・財・学・メディの5役そろい踏みの「大八百長」だった。

今日は太極拳の稽古の日。雨降りにもかかわらず,珍しく全員(6名)がそろっての稽古となった。が,昼食はそれぞれに用事があって,残ったのは,これまたいつもの3人(Kさん,Nさん,Iさん)。

当然のことながら,原発に関する話題が中心だが,ときにはアルジャジーラの話に転じたり,ある著名人が最近,権力寄りになってきたとか,この人は大丈夫と思っていた人までが「ゆでカエル」になってきたとか,どこにでも飛んでいく。最近は,Kさんが問題意識旺盛で,しきりにNさんに質問・疑問をなげかける。そして,Nさんが,みごとな解答を示してくれる。これは,このご時世にあっては,快感である。なぜなら,なんとなく漠然としていてよくわからなかったことがこのところつぎつぎに明るみにでてきて,これはいったいどういうことなのか,ということがじつに多い。この現象をどのように読み解くか,というのはじつはたいへんな力量が必要だ。そこのところの複雑な構造や歴史的な背景や思想・哲学について,じつに明快な道筋をつけてくれるのがNさんの役割。Iさんは,ただひたすら,KさんとNさんのやりとりを感動しながら聞き入るのみ。

そんな話題のひとつが「原発安全神話」がどのようにして構築されたのか,というところにおよんだ。これもまた,懇切丁寧にNさんが解説をしてくださり,とてもすっきりと腑に落ちた。詳しいことは省略するが,結論は以下のとおり。

「原発安全神話」は,政界・官僚・財界・学界・メディアの5者が寄り合って,一致協力した結果の産物である,と。要するに「癒着」であり,「談合」であり,つまりは「八百長」そのものだ。それも,ただの「八百長」ではない。ケタが違う。そこで動いている金額の大きさが,とんでもないものだ。想像を絶するような金額が流れている。それだけではない。この「大八百長」は,人の命まで犠牲にする,空前絶後のものだ。しかも,日本だけではない。世界中の人間の命をも犠牲にする,とんでもないしろものだ。しかも,これを「国策」と称して推進してきたのだ。「国策」が「八百長」によって仕組まれていたのだ。

「原発」がどれほど危険なものであるは,政界も官僚も財界も学界もメディアも,そのトップ・レベルにいる人たちはみんな熟知していたはずである。にもかかわらず,しらを切った。だから質が悪い。なにも知らない庶民は「原発安全神話」に関する膨大な情報量に圧倒されてしまって,「ああ,そうなんだ」と思い込まされてしまった。その手の念の入れ方はすごいもので,小・中学校の教科書にまで踏み込んで「原発安全」教育をこれまでずっとやってきた。およそ30年以上もの間,文部科学省もまた,その片棒をかついできたというわけだ。だから,いまの30代の大人の多くが「原発安全神話」で刷り込まれている。とくに,優等生ほど,みごとに刷り込まれてしまっていて,場合によっては修復不能とまでいわれている。

こうした具体的な話は,また,いつかやることにして,話をさきに進めよう。
この政・官・財・学・メディの5役そろい踏みによって成立する「大八百長」が明るみにでてしまったことが,今回の大惨事にあって,唯一の収穫だった,と言ったら叱られるだろうか。そして,この「大八百長」をこそ突破していく力をわがものとすること,つまり,「脱原発」社会に向けて総力を傾けること,それが「3・11」以後を生き延びるための最大の課題ではないか,とわたしは考える。

この「大八百長」にくらべたら,大相撲の「八百長」などは可愛いものだ。第一に,人畜無害だ。犯罪でもない。やりたければいくらでもやればいい。お客さんがこなくなるだけのこと。大相撲も商売だから,外からとやかく言わなくても,この辺が限度であることぐらい承知している。あとは,自主規制にゆだねておけばいい。そして,自浄能力なし,と判断したら「公益法人」をはずせばいい。そして,天皇杯も返還させる。それだけでいい。それを,絶対にやってはいけない「処分」をしてしまった。

大相撲の八百長がそんなに悪いものだというのなら,「原発安全神話」をでっちあげた「大八百長」を野放しにしておいていいのか。こちらも,ついでに,「特別委員会」を組織して,しかるべき「処分」をしてほしい。いまこそ,メディアが踏ん張るときだ。アルジャジーラのように,現地取材にもとづく事実を洗い出し,その情報を公開し,その判断は視聴者に委ねる,というようなメディアが日本にも育ってほしいものだ。

「原発安全神話」は政・官・財・学・メディの5役そろい踏みの「大八百長」の産物だった。ここをどう突破していくのか,それこそが「脱原発」社会の構築に不可欠,かつ,喫緊の課題だ。いま,わたしたちは未曽有の「覚悟」が求められている。

未完。



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