なにもかもがメルトダウンを起こし,「3・11」以前に構築されてきた「あらゆるもの」(戦後民主主義も日米関係も,そして,マスメディアもアカデミズムもふくめて「あらゆるもの」)が崩壊(メルトダウン)してしまった。さて,われわれはこれからどのような「問い」を立て,その答えをみつけていけばいいのか,という問題提起を西谷修さんがブログのなかで書いている。
昨夜も今朝もずっとこのことを考えつづけている。
現実には,被災地の復旧・復興に向けて日夜,多くの人びとが全力をそそいでいる。そして,一刻も早く「3・11」以前の「普通」の状態をとりもどそう,という掛け声が鳴り響く。わたしもまったく同感であった。しかし,よくよく考えてみると,ここでいう「普通」とはなにか,という肝心要の「問い」が抜け落ちていることに気づく。この「3・11」以前の「普通」もまた「メルトダウン」してしまったのだ。一度,メルトダウンしてしまったものは半永久的に「普通」にはもどれない。そのことも今回の原発事故によって学んだ貴重な教訓のひとつだ。
そこで,もう一度,「問い」を立て直して考えてみよう。
「3・11」以前の「普通」とはなにか?
この「問い」への応答の仕方は無限に広がっていくので,まずは,この夏に向けての当面の課題である「電力」に限定して考えてみよう。すると,にわかに奇怪なイメージが浮かび上がる。電力事情を「3・11」以前の「普通」にもどすとは,どういうことなのか?という「問い」だ。これは,まさに,原発推進派や東電の思うつぼである。十分な電力を確保するためには,いま停止している原発を一刻も早く再始動させることだ,と。もちろん,いまでは,すでに,原発に頼らなくても電力は確保できる,と多くの識者の試算が提示されているように,この夏の電力は足りる。
このことを確認した上で,「3・11」以前のような電力の消費状態は,はたして「普通」だったといえるのか,という新たな「問い」がここでは不可欠だろう。このブログでも,何回かに分けて書いてきたように,わたしたちはあまりに贅沢に電力を消費してきたのではなかったか。家庭のテレビはつけっぱなし。夜の街中は必要以上に明るい。コンビニを筆頭に,デパートも,駅舎も,会社の中も,とにかく明るいことはいいことだとばかりに目一杯に電力を消費してきた。徐々に,徐々に,少しずつ,長い時間をかけてこの「明るさ」が増大してきたので,わたしたちはこれを「普通」だとカンチガイしてしまった。この明るさは,ヨーロッパの人たちからみると「異常」なのだ。わたしの少なからぬヨーロッパ滞在経験からしても,ヨーロッパの「節電」は徹底している。
「3・11」以後,わたしたちが経験した街中の「節電」も,当初は「暗い」なぁと感じたものの,ものの2,3週間もしたら慣れてしまった。慣れてしまえば,それが「普通」になる。しかも,なにも不自由はない。電車の本数も通常の「8割運転」になった。日中の運転間隔が,やや,遠くなったかなぁ,とは思うが,なんの不自由も感じない。これでいいのだ。つまり,過剰なサービスは不要だということ。デパートの照明も,いま敷設されている電灯の「8割」で十分だ。それでも,ヨーロッパのデパートよりは,はるかに明るい。
このように考えてくると,「3・11」以前の「普通」はふつうではなかった,ということがわかってくる。いったい,この「普通」とはなにか,というつぎなる「問い」が立ち上がってくる。ここからさきはみなさんに考えてもらうことにしよう。
いま,重要なことは,「普通」をどこに設定するかによって,「3・11」以後の目指すべき方向やレベルが決まる,ということだ。以前の「普通」は異常だったという認識に立つことが先決である。そして,つぎなる「ふつう」をどのように模索していくか,それがわたしたちに課せられた「問い」である。そのためには,人が「生きる」とはどういうことなのか,という根源的な「問い」からやり直さなくてはならない。つまり,「0(ゼロ)」からの再出発である。
ことほどさように,なにもかも,「0」からの再出発が必要だ。原発も「0」から仕切り直し。
経済も同様。宇沢弘文さんが仰るように,「人間と自動車とどちらが大事なのか」と考えよ。人間が大事なのは分かり切っているだろう。だったら,道路は歩行者優先にして,まずは,歩く人のための道路を確保した上で,つぎに自動車の走る道を考えるべきだ。それが,いまや,人間が自動車に道を譲らなくてはならない道路になってしまっている。これは本末転倒だ。と宇沢さんの本を読むと,経済そのものの考え方の根本が狂っている,ということがわかってくる。その狂ってしまった市場経済最優先政策の結果として立ち現れた「消費文明」を,わたしたちは「普通」とカンチガイする羽目に陥ったのだ。そこから脱出すること。それこそが,なにもかもメルトダウンしてしまった,「3・11」以後を生きるわたしたちの最大の課題ではないか,とわたしは考えている。
この問題は,これからも折に触れ,取り上げて考えていきたいと思う。
なぜなら,いま,わたしたちが眼にしている「スポーツ」もまた「普通」だと思っている人が圧倒的多数なのだが,じつは,これもまた「普通」ではないどころか,きわめて「異常」なのだ。それは,生きる人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な「問い」を立ててみれば,すぐにわかることだ。このことと,「3・11」以前の「普通」とは間違いなく「連動」しているからだ。
なにもかもがメルトダウンして,それまで「普通」だと思っていたことが,きわめて「異常」であったということに,初めて気がつく。すべては「気づく」ことからはじまる。早い・遅いは仕方がない。気づいたときが吉日だ。そこから出発するしかないのだから。
気づいたところから「3・11」以前の「普通」を乗り越えていこう。そして,あらたな21世紀を生きる「ふつう」を構築していこう。
昨夜も今朝もずっとこのことを考えつづけている。
現実には,被災地の復旧・復興に向けて日夜,多くの人びとが全力をそそいでいる。そして,一刻も早く「3・11」以前の「普通」の状態をとりもどそう,という掛け声が鳴り響く。わたしもまったく同感であった。しかし,よくよく考えてみると,ここでいう「普通」とはなにか,という肝心要の「問い」が抜け落ちていることに気づく。この「3・11」以前の「普通」もまた「メルトダウン」してしまったのだ。一度,メルトダウンしてしまったものは半永久的に「普通」にはもどれない。そのことも今回の原発事故によって学んだ貴重な教訓のひとつだ。
そこで,もう一度,「問い」を立て直して考えてみよう。
「3・11」以前の「普通」とはなにか?
この「問い」への応答の仕方は無限に広がっていくので,まずは,この夏に向けての当面の課題である「電力」に限定して考えてみよう。すると,にわかに奇怪なイメージが浮かび上がる。電力事情を「3・11」以前の「普通」にもどすとは,どういうことなのか?という「問い」だ。これは,まさに,原発推進派や東電の思うつぼである。十分な電力を確保するためには,いま停止している原発を一刻も早く再始動させることだ,と。もちろん,いまでは,すでに,原発に頼らなくても電力は確保できる,と多くの識者の試算が提示されているように,この夏の電力は足りる。
このことを確認した上で,「3・11」以前のような電力の消費状態は,はたして「普通」だったといえるのか,という新たな「問い」がここでは不可欠だろう。このブログでも,何回かに分けて書いてきたように,わたしたちはあまりに贅沢に電力を消費してきたのではなかったか。家庭のテレビはつけっぱなし。夜の街中は必要以上に明るい。コンビニを筆頭に,デパートも,駅舎も,会社の中も,とにかく明るいことはいいことだとばかりに目一杯に電力を消費してきた。徐々に,徐々に,少しずつ,長い時間をかけてこの「明るさ」が増大してきたので,わたしたちはこれを「普通」だとカンチガイしてしまった。この明るさは,ヨーロッパの人たちからみると「異常」なのだ。わたしの少なからぬヨーロッパ滞在経験からしても,ヨーロッパの「節電」は徹底している。
「3・11」以後,わたしたちが経験した街中の「節電」も,当初は「暗い」なぁと感じたものの,ものの2,3週間もしたら慣れてしまった。慣れてしまえば,それが「普通」になる。しかも,なにも不自由はない。電車の本数も通常の「8割運転」になった。日中の運転間隔が,やや,遠くなったかなぁ,とは思うが,なんの不自由も感じない。これでいいのだ。つまり,過剰なサービスは不要だということ。デパートの照明も,いま敷設されている電灯の「8割」で十分だ。それでも,ヨーロッパのデパートよりは,はるかに明るい。
このように考えてくると,「3・11」以前の「普通」はふつうではなかった,ということがわかってくる。いったい,この「普通」とはなにか,というつぎなる「問い」が立ち上がってくる。ここからさきはみなさんに考えてもらうことにしよう。
いま,重要なことは,「普通」をどこに設定するかによって,「3・11」以後の目指すべき方向やレベルが決まる,ということだ。以前の「普通」は異常だったという認識に立つことが先決である。そして,つぎなる「ふつう」をどのように模索していくか,それがわたしたちに課せられた「問い」である。そのためには,人が「生きる」とはどういうことなのか,という根源的な「問い」からやり直さなくてはならない。つまり,「0(ゼロ)」からの再出発である。
ことほどさように,なにもかも,「0」からの再出発が必要だ。原発も「0」から仕切り直し。
経済も同様。宇沢弘文さんが仰るように,「人間と自動車とどちらが大事なのか」と考えよ。人間が大事なのは分かり切っているだろう。だったら,道路は歩行者優先にして,まずは,歩く人のための道路を確保した上で,つぎに自動車の走る道を考えるべきだ。それが,いまや,人間が自動車に道を譲らなくてはならない道路になってしまっている。これは本末転倒だ。と宇沢さんの本を読むと,経済そのものの考え方の根本が狂っている,ということがわかってくる。その狂ってしまった市場経済最優先政策の結果として立ち現れた「消費文明」を,わたしたちは「普通」とカンチガイする羽目に陥ったのだ。そこから脱出すること。それこそが,なにもかもメルトダウンしてしまった,「3・11」以後を生きるわたしたちの最大の課題ではないか,とわたしは考えている。
この問題は,これからも折に触れ,取り上げて考えていきたいと思う。
なぜなら,いま,わたしたちが眼にしている「スポーツ」もまた「普通」だと思っている人が圧倒的多数なのだが,じつは,これもまた「普通」ではないどころか,きわめて「異常」なのだ。それは,生きる人間にとってスポーツとはなにか,という根源的な「問い」を立ててみれば,すぐにわかることだ。このことと,「3・11」以前の「普通」とは間違いなく「連動」しているからだ。
なにもかもがメルトダウンして,それまで「普通」だと思っていたことが,きわめて「異常」であったということに,初めて気がつく。すべては「気づく」ことからはじまる。早い・遅いは仕方がない。気づいたときが吉日だ。そこから出発するしかないのだから。
気づいたところから「3・11」以前の「普通」を乗り越えていこう。そして,あらたな21世紀を生きる「ふつう」を構築していこう。
2 件のコメント:
ありがとうございました。
もう少ししっかり読んでみます。
取り急ぎお礼まで。
何度か読み返しているうちに、引っかかる部分がいくつかありました。
コンクールに応募している子ども達が結構多いこと。(そもそも、夏休みをまたぐコンクールというのは学校現場が困るほど、たくさん降りてきている。その中で、この応募数は多い方なのか、平均なのか。)
文部科学省に原子力課があること(なんで文科省に?)。
原子力エネルギーとの共生?(共生とはどういう意味なのか。)
等々です。
そして、ブログにあった「ある『覚悟』」についても、考えないといけないと・・・。
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