この本をどう思うか読んでみてほしいという依頼とともに『けんちく体操』なる本がとどいた。『けんちく体操』(THE ARCHTECTURAL GYMNASTICS),体操と文=米山勇+高橋英久+田中元子+大西正紀(チームけんちく体操),エクスナレッジムック,2011年4月刊,1,200円。
宅急便で送られてきたので,そこからとり出した瞬間に笑ってしまった。その表紙をみて。なぜなら,東京タワーの前で,3人の大人(うちひとりは女性)が立位開脚姿勢で両腕を頭の上に伸ばし,手の平を合わせている。真っ青の空に赤白に塗られた東京タワーがそびえ立つ前で,3人が大まじめな顔をして,さきほどのポーズをとっている。つまり,東京タワーになったつもりなのだろう。人の影が長く伸びているところをみると早朝の撮影であることがわかる。これが,すなわち「けんちく体操」だというわけだ。
いつものクセで,目次を拾い読みしたら,すぐに,うしろにまわり,奥付から順番にチェックを入れていく。表紙カバーの折り返しのところに「けんちく体操」の定義らしきものが書いてあるので,それを引いておこう。
【けんちく体操】
建築物を模写する体操。外観だけでなく,構造や用途,個人的に抱いた第一印象などを身体で表現するもので,身体能力以上に,建築を見る,知る,愛する情熱が問われる体操である。やればやるほど「けんちく体質」を身に付けられると言われている。「けんちく体操」を行うために作られたロボット「けんちく体操マン・ウーマン」は,現在,3体確認されている。
ひととおり内容をチェックしてから,この定義を読むと,なるほど,まことに手際よくまとめてあることがわかる。みごとというほかはない。「建築物を模写する体操」ですべて言い切っている。その上で,身体能力よりも建築を見る,知る,愛する情熱」が大事だという。そして,やがて「けんちく体質」が身につくという。このあたりでもう一度,ぷっと吹き出してしまう。さいごに,ロボットが3体確認されている,というところで再度「ぷっ」である。
奥付を一枚めくると,「チームけんちく体操」の4人のメンバーが紹介されている。それがまたふるっている。けんちく体操博士”イサーム・ヨネ”=米山勇,けんちく体操マン1号=高橋英久,けんちく体操ウーマン1号=田中元子,けんちく体操マン2号=大西正紀。それぞれの経歴が詳しく紹介されている。うち,お二人は建築の専門家,あとのお二人も建築にかかわるお仕事にたずさわっていらっしゃる。この4人が横並びに直立不動の姿勢で立っている写真が眼を引く。その顔ぶれをじっと眺めていると,やはり,ふつうの人たちではないな,ということが伝わってくる。
日本の有名な建築を中心に,世界のよく知られる建築を加えて,全部で73のパフォーマンスが紹介されている。みんな,表紙の東京タワーと同じように,身体的なパフォーマンスとしてはきわめて単純で簡単なものばかり。むつかしい身体技法はひとつもない。見れば,すぐに,その場で,だれでもできるものばかりである。たとえば,白川郷の合掌造りは,開脚で立ち,上体をやや前傾して,顔の下で両手を合わせて合掌しているだけである。
これが,なぜ,「けんちく体操」なのかなぁと考える。みんな真剣な表情をしている。つまり,自分のイメージする建築になりきっているのである。この「なりきる」ということが大事らしい。そして,「けんちく体質」を身につけること。そうなると,どうも快感がともなうようになるらしい。ここまで思いがたどりついたとき,はたと気づいたことがある。
そうか。これは,まさに「体操」である。それも体操の「本質」をみごとに衝いている。
20世紀の前後にかけてヨーロッパでは「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung)なるものが展開された。それは,19世紀に盛んに行われるようになった体操が次第に形骸化してしまい,まるで,ピノキオのような人形が体操をしているようなものになってしまった。そこで,ピノキオに人間の魂を吹き込んで,人形の体操から人間らしい体操をとりもどそうと主張する人びとが登場した。そこに集まってきた人たちは体操の専門家だけではなく,ダンスや音楽や芸術の専門家たちまで集まってきて,人間の魂の内奥からわき上がってくるような快感をともなう体操を模索することになった。
この体操改革運動は,断わるまでもなく,この時代の芸術運動と連動するものであった。たとえば,絵画の印象派やキュービズムやシュールレアリスムなどの,いわゆるアヴァンギャルドと呼ばれる運動と密接にリンクしていたのである。この時代はまた,ジョルジュ・バタイユやカイヨワや岡本太郎などが集まって形骸化してしまったアカデミズムに対する根底的な問いを発していたころとも符号する。これらの主張に共通していることは,人間の内奥の表出を擁護するという立場である。体操改革の主眼もそこにあった。
こうした体操改革の成果は,第二次世界大戦後になって,さらに細分化しそれぞれの道を歩むこととなる。たとえば,競技化をめざした新体操,健康や美容やリズムやエアロビックといった目的別にそれぞれの体操体系を立ち上げ,こんにちにいたっている。しかしながら,1920年代の最大の成果である体操の本質,すなわち,人間の内奥と共振・共鳴する体操の存在が,どこか影がうすくなってきているように思われる。いな,目的意識の明確な体操ブームに煽られてしまって,体操をすることそのものの喜びを重視する体操(体操の本質につながる体操)がどこかに置き去りにされているのではないか,とわたしなどは危惧している。
そこに,この「けんちく体操」の登場である。これを「体操」と名づけたところを高く評価したいと思う。なぜなら,ものまね芸だと片づけてしまってもなんの問題もないかのようにみえるからだ。お笑いの世界でも「炎」という文字をからだで表現する芸がある。形態模写(コロッケの芸)やパントマイムのような芸もある。しかし,それらの芸とは明確に一線を画して,声高らかに「けんちく体操」と名乗りをあげたところが素晴らしい。
なにゆえにか。建築は,人間が産み出した純然たるオブジェそのものである。つまり,人間の身体性ともっとも深くかかわるべきはずの建築が,動物性そのものを体現している身体とはもっとも遠いところに位置づけられることになってしまった。その結果,人間の身体もまたオブジェと化しつつある。このことをもっとも危惧していた建築家に荒川修作がいた。かれは,近代が産み出した直線的な建築に人間の身体がとりこまれてしまうことは「死ぬ」ことと同じだ,と主張し「死なないために」というコンセプトの建築をめざした。そのひとつが「養老天命反転地」というテーマ・パークだ。ここで目指されたものは,建築をとおして「死にかけて」いた身体を蘇生させることだった。
このことと「けんちく体操」は深くつながっている。しかし,そのベクトルは逆だ。「けんちく体操」は,純然たるオブジェである建築物を身体で表現しようとする。しかし,そこにはどう頑張っても埋め合わすことのできない深い溝がある。だから,「なりきる」ことによってその溝を埋め合わせようとする。そのように努力していると,いつのまにか「けんちく体質」が身につくという。この「けんちく体質」こそがポイントだ。すなわち,たんなるオブジェにすぎない建築物に身体をなりきらせようとするとき,身体の「動物性」が蘇生する。つまり,身体の動物性に「じかに」触れる体験をともなう。このとき,人間はいわくいいがたい快感にしびれる。これこそが「体操」の根源であり,「体操」の本質そのものに触れることなのだ。
「けんちく体操」は,長い間,忘れていた「体操」の本質そのものを呼び覚ます恐るべき「文化装置」として,この21世紀に誕生したことになる。
とまあ,大急ぎで,いま,わたしが感じ,考えたことを整理すると以上のようになろうか。このあたりのことは,きわめて重要なことなので,もう少し考えを推敲してみたいと思う。とりあえず,今夜はここまでとする。
宅急便で送られてきたので,そこからとり出した瞬間に笑ってしまった。その表紙をみて。なぜなら,東京タワーの前で,3人の大人(うちひとりは女性)が立位開脚姿勢で両腕を頭の上に伸ばし,手の平を合わせている。真っ青の空に赤白に塗られた東京タワーがそびえ立つ前で,3人が大まじめな顔をして,さきほどのポーズをとっている。つまり,東京タワーになったつもりなのだろう。人の影が長く伸びているところをみると早朝の撮影であることがわかる。これが,すなわち「けんちく体操」だというわけだ。
いつものクセで,目次を拾い読みしたら,すぐに,うしろにまわり,奥付から順番にチェックを入れていく。表紙カバーの折り返しのところに「けんちく体操」の定義らしきものが書いてあるので,それを引いておこう。
【けんちく体操】
建築物を模写する体操。外観だけでなく,構造や用途,個人的に抱いた第一印象などを身体で表現するもので,身体能力以上に,建築を見る,知る,愛する情熱が問われる体操である。やればやるほど「けんちく体質」を身に付けられると言われている。「けんちく体操」を行うために作られたロボット「けんちく体操マン・ウーマン」は,現在,3体確認されている。
ひととおり内容をチェックしてから,この定義を読むと,なるほど,まことに手際よくまとめてあることがわかる。みごとというほかはない。「建築物を模写する体操」ですべて言い切っている。その上で,身体能力よりも建築を見る,知る,愛する情熱」が大事だという。そして,やがて「けんちく体質」が身につくという。このあたりでもう一度,ぷっと吹き出してしまう。さいごに,ロボットが3体確認されている,というところで再度「ぷっ」である。
奥付を一枚めくると,「チームけんちく体操」の4人のメンバーが紹介されている。それがまたふるっている。けんちく体操博士”イサーム・ヨネ”=米山勇,けんちく体操マン1号=高橋英久,けんちく体操ウーマン1号=田中元子,けんちく体操マン2号=大西正紀。それぞれの経歴が詳しく紹介されている。うち,お二人は建築の専門家,あとのお二人も建築にかかわるお仕事にたずさわっていらっしゃる。この4人が横並びに直立不動の姿勢で立っている写真が眼を引く。その顔ぶれをじっと眺めていると,やはり,ふつうの人たちではないな,ということが伝わってくる。
日本の有名な建築を中心に,世界のよく知られる建築を加えて,全部で73のパフォーマンスが紹介されている。みんな,表紙の東京タワーと同じように,身体的なパフォーマンスとしてはきわめて単純で簡単なものばかり。むつかしい身体技法はひとつもない。見れば,すぐに,その場で,だれでもできるものばかりである。たとえば,白川郷の合掌造りは,開脚で立ち,上体をやや前傾して,顔の下で両手を合わせて合掌しているだけである。
これが,なぜ,「けんちく体操」なのかなぁと考える。みんな真剣な表情をしている。つまり,自分のイメージする建築になりきっているのである。この「なりきる」ということが大事らしい。そして,「けんちく体質」を身につけること。そうなると,どうも快感がともなうようになるらしい。ここまで思いがたどりついたとき,はたと気づいたことがある。
そうか。これは,まさに「体操」である。それも体操の「本質」をみごとに衝いている。
20世紀の前後にかけてヨーロッパでは「体操改革運動」(Neue Gymnastikbewegung)なるものが展開された。それは,19世紀に盛んに行われるようになった体操が次第に形骸化してしまい,まるで,ピノキオのような人形が体操をしているようなものになってしまった。そこで,ピノキオに人間の魂を吹き込んで,人形の体操から人間らしい体操をとりもどそうと主張する人びとが登場した。そこに集まってきた人たちは体操の専門家だけではなく,ダンスや音楽や芸術の専門家たちまで集まってきて,人間の魂の内奥からわき上がってくるような快感をともなう体操を模索することになった。
この体操改革運動は,断わるまでもなく,この時代の芸術運動と連動するものであった。たとえば,絵画の印象派やキュービズムやシュールレアリスムなどの,いわゆるアヴァンギャルドと呼ばれる運動と密接にリンクしていたのである。この時代はまた,ジョルジュ・バタイユやカイヨワや岡本太郎などが集まって形骸化してしまったアカデミズムに対する根底的な問いを発していたころとも符号する。これらの主張に共通していることは,人間の内奥の表出を擁護するという立場である。体操改革の主眼もそこにあった。
こうした体操改革の成果は,第二次世界大戦後になって,さらに細分化しそれぞれの道を歩むこととなる。たとえば,競技化をめざした新体操,健康や美容やリズムやエアロビックといった目的別にそれぞれの体操体系を立ち上げ,こんにちにいたっている。しかしながら,1920年代の最大の成果である体操の本質,すなわち,人間の内奥と共振・共鳴する体操の存在が,どこか影がうすくなってきているように思われる。いな,目的意識の明確な体操ブームに煽られてしまって,体操をすることそのものの喜びを重視する体操(体操の本質につながる体操)がどこかに置き去りにされているのではないか,とわたしなどは危惧している。
そこに,この「けんちく体操」の登場である。これを「体操」と名づけたところを高く評価したいと思う。なぜなら,ものまね芸だと片づけてしまってもなんの問題もないかのようにみえるからだ。お笑いの世界でも「炎」という文字をからだで表現する芸がある。形態模写(コロッケの芸)やパントマイムのような芸もある。しかし,それらの芸とは明確に一線を画して,声高らかに「けんちく体操」と名乗りをあげたところが素晴らしい。
なにゆえにか。建築は,人間が産み出した純然たるオブジェそのものである。つまり,人間の身体性ともっとも深くかかわるべきはずの建築が,動物性そのものを体現している身体とはもっとも遠いところに位置づけられることになってしまった。その結果,人間の身体もまたオブジェと化しつつある。このことをもっとも危惧していた建築家に荒川修作がいた。かれは,近代が産み出した直線的な建築に人間の身体がとりこまれてしまうことは「死ぬ」ことと同じだ,と主張し「死なないために」というコンセプトの建築をめざした。そのひとつが「養老天命反転地」というテーマ・パークだ。ここで目指されたものは,建築をとおして「死にかけて」いた身体を蘇生させることだった。
このことと「けんちく体操」は深くつながっている。しかし,そのベクトルは逆だ。「けんちく体操」は,純然たるオブジェである建築物を身体で表現しようとする。しかし,そこにはどう頑張っても埋め合わすことのできない深い溝がある。だから,「なりきる」ことによってその溝を埋め合わせようとする。そのように努力していると,いつのまにか「けんちく体質」が身につくという。この「けんちく体質」こそがポイントだ。すなわち,たんなるオブジェにすぎない建築物に身体をなりきらせようとするとき,身体の「動物性」が蘇生する。つまり,身体の動物性に「じかに」触れる体験をともなう。このとき,人間はいわくいいがたい快感にしびれる。これこそが「体操」の根源であり,「体操」の本質そのものに触れることなのだ。
「けんちく体操」は,長い間,忘れていた「体操」の本質そのものを呼び覚ます恐るべき「文化装置」として,この21世紀に誕生したことになる。
とまあ,大急ぎで,いま,わたしが感じ,考えたことを整理すると以上のようになろうか。このあたりのことは,きわめて重要なことなので,もう少し考えを推敲してみたいと思う。とりあえず,今夜はここまでとする。
2 件のコメント:
はじめまして。けんちく体操ウーマン1号こと、たなかと申します。
「けんちく体操」をご笑覧頂き、しかも素晴らしい書評を、本当にありがとうございます!
我々「チームけんちく体操」には身体を動かすプロがおらず、身体を操作するアイディアがどうしても単純になりがちで、体操を考案するのももどかしかったのですが、一方、好きなものに似ようとすることは、想像以上に単純な、しかし大きな楽しさがありました。
逆に、一度でも体操してもらえれば、建築を少しでも好きになってもらえる(いわゆる「けんちく体質」ですね)というところにやりがいを感じて、ワークショップを開催してきました。
稲垣さんの書評の中には、まさに私たちが身体を動かしながら、徐々に気付かされてきたことが、スルリと解き明かされてあり、本当に驚かされました。ありがとうございます。
7月16日(土)14時から、成城学園前のコルティー2Fにあります三省堂書店さんにて、けんちく体操のワークショップをさせて頂く予定です。本に収録した建築だけでなく、地元の建築も演目に交え、大人も子どもも、みんなでトライできればと思っています。よろしければぜひ、遊びにいらしてください!
ほんものの「けんちく体操ウーマン1号」さんからコメントが入るとは夢にも思っていませんでした。びっくり仰天です。
それにも増して,わたしの読解がはずれてはいなかったようで,まずは安心しました。あれを書いたあと,さらに思考が深まっていて,それもいつか書いてみようかなと考えています。ただ,あまりに哲学的になりすぎてしまいますので,ちょっとためらっているところです。
7月16日にワークショップがあるとのことですが,残念ながら,すでに沖縄に所要があってスケジュールが埋まっています。また,どこかでおやりになるときには,ぜひ,時間を調整して,見学させていただきます。
取り急ぎ,お礼まで。
inamasaより。
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