停電と電車の間引き運転を避けて,愛知県に住む弟の家に「避難」していた。16日(水)の太極拳の稽古がお休みになったので(電車の間引き運転のため),大急ぎで避難を決意した。
いつもは,自宅と事務所を往復しながら,自宅の仕事と事務所の仕事を分けて暮らしていた。原稿を書く仕事は事務所,その他の雑用は自宅,という具合に。そうしていたら,いつのまにか重要な資料はほとんど事務所に移動している。だから,原稿を書くには事務所に行かなくてはならない。その足がこれまた不安定。もうひとつは停電。
折しも,20日締め切りの原稿が2本。「3・11」以後,気もそぞろになっていて,原稿が書けない。書きかけるのだが,集中力が持続しない。細切れ的なアイディアばかりが増えつづけるだけで,文章にはならない。困りはてていた。そこで,ここは「避難」することによって,気持ちを落ち着けるしか方法はないか,と考える。切羽詰まった決断である。そこでとっさに弟に電話をして,行動を起こす。で,結果的には,これが効を奏した。
2本の原稿のうち1本は短いものだったので,すぐに片づけ,もうひとつの原稿に取り組む。停電に怯えることなく,眠くなったら眠り,目が覚めたら原稿を書く,という態勢に持ち込めたのがよかった。不安解消はなによりの妙薬だった。それでもぎりぎりまで「ながれ」がみえてこない。何回も,書き出すの部分(ここが命綱)を書き直す。問題の設定の仕方が悪いと,書いている途中から「ねじれ」がはじまり,どんどん苦しくなってくる。その逆に,最初の書き出しが的中すれば,あとは放っておいてもどんどん「流れて」いく。そこに到達するまでが,いつも苦労するところだ。今回も,同じように手間取る。
あるとき,目覚めた瞬間に,書き出しの文章が浮かんでくる。それっ,というわけで急いでパソコンに向かい書きはじめる。それが,なんと19日の早朝。でも,道筋はみえているので気持ちを落ち着けて書く。とりあえず,乱暴に所定の枚数(24枚・400字)まで書き終える。これでほっとする。あとは推敲をするだけだ。
でも,20日(日)は,「ISC・21」の3月大阪例会で,わたしはプレゼンテーションをやることになっている。で,仕方がないので,この書き上げたばかりの,推敲前の文章を読み上げて,みんなの意見を聞きながら,推敲のポイントをいくつか確認する。とてもいい意見や指摘が得られたので,わたしとしてはとても助かった。あと,1時間もあれば推敲はできる。でも,夜は懇親会。これはなんとしても顔を出したい。しかも,一旦,アルコールが入ってしまえば,原稿に手をつけることなどできない。かえって危ない。とうとう,夜中に,明日の昼までに推敲して原稿を送信します,と編集担当者にメールで懇願。それで安心したのか,おしゃべりに夢中。気がついたら夜中の3時近い。
大急ぎで眠って,朝風呂に入って,すっきりしたところで推敲にとりかかる。これが意外に時間がかかり,午前11時近くに完成。でも,かなり集中できたので,自分としてはまずまずの満足。いそいで,編集担当者宛てに送信。パソコンはありがたいものだ。持ち歩いていれば,どこにいても仕事はできる。
こうして避難生活の目的を無事にクリア。難産ではあったが・・・。
22日の午前中に,お墓参りに行く。お彼岸の翌日だったので,お墓の花は,どこの墓も新しいもので飾られ,いつもとはまったく違う華やかな雰囲気。思っていたよりは日本人から宗教心が失われてはいない,と実感。両親のお墓と祖父(17世),そして大叔父(18世)の墓をまわり,般若心経を唱える。
夕刻,新横浜駅にたどりつく。新幹線の「こだま」はがら空き。昨日は,大混雑だったが。
プラットフォームから下に降りてきたら,どこかいつもと雰囲気が違う。すぐに気づいたが,照明が落してある。だから,薄暗い。地下鉄乗場に降りたら,さらに,薄暗い。明るさに慣れきってしまった現代人であるはずのわたしのからだの奥底にある古い記憶が蘇ってくる。
その記憶は二つある。ひとつは,第二次世界大戦の末期のころの夜である。戦時体制下での灯火管制が行われていた。夜は,どこの家も電灯を最小限にして,暗くし,息を潜めて暮らしていた。そして,空襲警報が発令されると,真夜中でも,手さぐりで防空壕の中に逃げ込む。ここはさらに真っ暗だ。それでも,このときは,家の中で寝泊まりをしていた。
もうひとつは,三河の大地震のあとの一カ月ほどの避難生活。三河の大地震は,当時の「大本営」は発表しなかったので,戦後になってから,その実態が少しずつ明らかにされたという経緯がある。わたしが国民学校(小学校をこのように呼んでいた)の1年生のときの12月8日。開戦記念日ということで学校はお休みだった。その実態は,大空襲があるという情報にもとづく「休校」措置だった。近所の子どもたちと一緒に路地で遊んでいた。そこに,とんでもない激震である。最初はなにが起きたのかもわからない。ばたっと前に倒れて,四つんばいになっている。そばにいた友だちもみんな四つんばいになっている。そのうちに,四つんばいにもなっていられず,路地の上をころがっている。みんな同じようにころがっている。まだ,なにが起きているのかわからない。少し離れたところにいた次兄が「地震だっ!」と大きな声を発した。そちらに目をやると,次兄は,小さな雌竹の藪にしがみついている。ころころ転がりながら,あちこちに目を向けてみる。防火用水の水が,撥ね上げられるように飛び出している。かなり長い間,揺れていたように記憶する。
大変だったのは,その後の余震だった。木造2階建ての借家に住んでいたが,危険だというので,雨戸をはずして空き地に囲みをつくり,屋根代わりに「むしろ」をかけて,その中に潜り込むようにして夜を過ごした。真っ暗闇である。しかも,ひっきりなしに揺れている。しかも,けして小さくはない。その上に,寒い。とにかく寒くて震えていた。ほとんど眠ってはいなかったのではないか。なぜなら,昼は日向ぼっこをしながら居眠っていたからだ。
新横浜の駅から溝の口の駅まで,みんな照明を落していたので(しかも,小雨の降る,どんよりとした空模様だったので),どこもかしこも暗い。そして,溝の口から自宅のあるマンションまでの間に丸井がある。その中を通過していくのが近道なので,丸井に向かう。今日は休業なのかな,と思うほどにそとの照明がほとんど消えている。近づいてみると中に人影がみえる。いつもの抜け道を通る。店のなかの照明も必要最小限に抑えている。
一週間ぶりに自宅にたどりつく。計画停電は午後6時20分から11時までの間の3時間,とある。いよいよ夜も停電になるのか,と覚悟を決める。その前に夕食を済ませ,いつ停電がきてもいいように食後の一休みとばかりに仮眠をとる。午後9時ころ目覚めてみると電気が点いている。どうやら停電はなかったようだ。が,それにしても,昼の停電ならともかくも,夜の停電はおおいに生活のリズムが狂わせられる。これからさきが思いやられる。
でも,被災地で難を逃れて避難生活をしている人たちのことを考えるとぜいたくは言ってはいられない。明日からは,不自由な避難生活をつづけている人たちに思いを馳せながら,みずからの生活を律していかなくては・・・としみじみと思う。
明日は太極拳の稽古日。久しぶりにみんなに会える。このことが無性に嬉しい。先週は交通機関の関係でお休みしたので,なおさらである。みんな,どんな顔をしているだろうか。
いつもは,自宅と事務所を往復しながら,自宅の仕事と事務所の仕事を分けて暮らしていた。原稿を書く仕事は事務所,その他の雑用は自宅,という具合に。そうしていたら,いつのまにか重要な資料はほとんど事務所に移動している。だから,原稿を書くには事務所に行かなくてはならない。その足がこれまた不安定。もうひとつは停電。
折しも,20日締め切りの原稿が2本。「3・11」以後,気もそぞろになっていて,原稿が書けない。書きかけるのだが,集中力が持続しない。細切れ的なアイディアばかりが増えつづけるだけで,文章にはならない。困りはてていた。そこで,ここは「避難」することによって,気持ちを落ち着けるしか方法はないか,と考える。切羽詰まった決断である。そこでとっさに弟に電話をして,行動を起こす。で,結果的には,これが効を奏した。
2本の原稿のうち1本は短いものだったので,すぐに片づけ,もうひとつの原稿に取り組む。停電に怯えることなく,眠くなったら眠り,目が覚めたら原稿を書く,という態勢に持ち込めたのがよかった。不安解消はなによりの妙薬だった。それでもぎりぎりまで「ながれ」がみえてこない。何回も,書き出すの部分(ここが命綱)を書き直す。問題の設定の仕方が悪いと,書いている途中から「ねじれ」がはじまり,どんどん苦しくなってくる。その逆に,最初の書き出しが的中すれば,あとは放っておいてもどんどん「流れて」いく。そこに到達するまでが,いつも苦労するところだ。今回も,同じように手間取る。
あるとき,目覚めた瞬間に,書き出しの文章が浮かんでくる。それっ,というわけで急いでパソコンに向かい書きはじめる。それが,なんと19日の早朝。でも,道筋はみえているので気持ちを落ち着けて書く。とりあえず,乱暴に所定の枚数(24枚・400字)まで書き終える。これでほっとする。あとは推敲をするだけだ。
でも,20日(日)は,「ISC・21」の3月大阪例会で,わたしはプレゼンテーションをやることになっている。で,仕方がないので,この書き上げたばかりの,推敲前の文章を読み上げて,みんなの意見を聞きながら,推敲のポイントをいくつか確認する。とてもいい意見や指摘が得られたので,わたしとしてはとても助かった。あと,1時間もあれば推敲はできる。でも,夜は懇親会。これはなんとしても顔を出したい。しかも,一旦,アルコールが入ってしまえば,原稿に手をつけることなどできない。かえって危ない。とうとう,夜中に,明日の昼までに推敲して原稿を送信します,と編集担当者にメールで懇願。それで安心したのか,おしゃべりに夢中。気がついたら夜中の3時近い。
大急ぎで眠って,朝風呂に入って,すっきりしたところで推敲にとりかかる。これが意外に時間がかかり,午前11時近くに完成。でも,かなり集中できたので,自分としてはまずまずの満足。いそいで,編集担当者宛てに送信。パソコンはありがたいものだ。持ち歩いていれば,どこにいても仕事はできる。
こうして避難生活の目的を無事にクリア。難産ではあったが・・・。
22日の午前中に,お墓参りに行く。お彼岸の翌日だったので,お墓の花は,どこの墓も新しいもので飾られ,いつもとはまったく違う華やかな雰囲気。思っていたよりは日本人から宗教心が失われてはいない,と実感。両親のお墓と祖父(17世),そして大叔父(18世)の墓をまわり,般若心経を唱える。
夕刻,新横浜駅にたどりつく。新幹線の「こだま」はがら空き。昨日は,大混雑だったが。
プラットフォームから下に降りてきたら,どこかいつもと雰囲気が違う。すぐに気づいたが,照明が落してある。だから,薄暗い。地下鉄乗場に降りたら,さらに,薄暗い。明るさに慣れきってしまった現代人であるはずのわたしのからだの奥底にある古い記憶が蘇ってくる。
その記憶は二つある。ひとつは,第二次世界大戦の末期のころの夜である。戦時体制下での灯火管制が行われていた。夜は,どこの家も電灯を最小限にして,暗くし,息を潜めて暮らしていた。そして,空襲警報が発令されると,真夜中でも,手さぐりで防空壕の中に逃げ込む。ここはさらに真っ暗だ。それでも,このときは,家の中で寝泊まりをしていた。
もうひとつは,三河の大地震のあとの一カ月ほどの避難生活。三河の大地震は,当時の「大本営」は発表しなかったので,戦後になってから,その実態が少しずつ明らかにされたという経緯がある。わたしが国民学校(小学校をこのように呼んでいた)の1年生のときの12月8日。開戦記念日ということで学校はお休みだった。その実態は,大空襲があるという情報にもとづく「休校」措置だった。近所の子どもたちと一緒に路地で遊んでいた。そこに,とんでもない激震である。最初はなにが起きたのかもわからない。ばたっと前に倒れて,四つんばいになっている。そばにいた友だちもみんな四つんばいになっている。そのうちに,四つんばいにもなっていられず,路地の上をころがっている。みんな同じようにころがっている。まだ,なにが起きているのかわからない。少し離れたところにいた次兄が「地震だっ!」と大きな声を発した。そちらに目をやると,次兄は,小さな雌竹の藪にしがみついている。ころころ転がりながら,あちこちに目を向けてみる。防火用水の水が,撥ね上げられるように飛び出している。かなり長い間,揺れていたように記憶する。
大変だったのは,その後の余震だった。木造2階建ての借家に住んでいたが,危険だというので,雨戸をはずして空き地に囲みをつくり,屋根代わりに「むしろ」をかけて,その中に潜り込むようにして夜を過ごした。真っ暗闇である。しかも,ひっきりなしに揺れている。しかも,けして小さくはない。その上に,寒い。とにかく寒くて震えていた。ほとんど眠ってはいなかったのではないか。なぜなら,昼は日向ぼっこをしながら居眠っていたからだ。
新横浜の駅から溝の口の駅まで,みんな照明を落していたので(しかも,小雨の降る,どんよりとした空模様だったので),どこもかしこも暗い。そして,溝の口から自宅のあるマンションまでの間に丸井がある。その中を通過していくのが近道なので,丸井に向かう。今日は休業なのかな,と思うほどにそとの照明がほとんど消えている。近づいてみると中に人影がみえる。いつもの抜け道を通る。店のなかの照明も必要最小限に抑えている。
一週間ぶりに自宅にたどりつく。計画停電は午後6時20分から11時までの間の3時間,とある。いよいよ夜も停電になるのか,と覚悟を決める。その前に夕食を済ませ,いつ停電がきてもいいように食後の一休みとばかりに仮眠をとる。午後9時ころ目覚めてみると電気が点いている。どうやら停電はなかったようだ。が,それにしても,昼の停電ならともかくも,夜の停電はおおいに生活のリズムが狂わせられる。これからさきが思いやられる。
でも,被災地で難を逃れて避難生活をしている人たちのことを考えるとぜいたくは言ってはいられない。明日からは,不自由な避難生活をつづけている人たちに思いを馳せながら,みずからの生活を律していかなくては・・・としみじみと思う。
明日は太極拳の稽古日。久しぶりにみんなに会える。このことが無性に嬉しい。先週は交通機関の関係でお休みしたので,なおさらである。みんな,どんな顔をしているだろうか。
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