2014年8月3日日曜日

いま,ガザ地区で起きていることは,イスラエル軍による無差別殺人です。

 日本の主要メディアはほとんど無視して,きちんとした情報を流していないので,ことの真相がよくわからない人がわたしの周囲には多い。そして,異口同音に言うことは「どっちもどっちだ」という冷たいことば。3人の少年が殺されたからといって,1500人以上もの一般市民(女性も子どもも含む)を無差別に殺してもいい,という理屈は成立しません。しかも,国連が提供した学校に避難していた市民までもターゲットにして,たんなる無差別の殺人行為が行われています。

 こうした事実を無視して「どっちもどっちだ」で片づけられては困ります。

 ことの発端は,イスラエルがパレスチナの居住区を封鎖して,行動の自由を奪ってしまったことにあります。もちろん,その前の経緯があるのですが,とりあえず,いまハマスというパレスチナの武装集団が主張しているのは,この不当な封鎖を解除せよ,という一点です。そして,基本的人権を保障された平和な生活を取り戻すことにあります。この主張は,イスラム原理主義の立場に立つ人びとでなくても,われわれ日本人にとっても当然の主張と言っていいでしょう。(この主張は,基本的人権と命を守るために米国の基地を県外に移設してくれ,という沖縄県民の長年の主張と,基本的なところで通底しています)。

 国連とアメリカが割って入って,72時間の休戦をとりつけたのに,たった9時間後にはイスラエル軍による戦闘がはじまって,またまた,無差別殺人行為が繰り返されています。イスラエル軍にはアメリカやイギリスから最先端の武器が供与されています。いっぽう,パレスチナには軍隊はありません。陸軍も海軍も空軍もありません。武装集団ハマスはイスラム原理主義を標榜する宗教団体です。そして,ほんのわずかな武器を手に圧倒的な武力に勝るイスラエル軍に対抗しているのです。それは,イスラム教を冒涜するいかなる相手も許すことはできないとする聖戦,つまり,ジハードであるわけです。ジハードを戦って死ぬ人は聖人であり,かならず天国にいくことができる,というイスラム原理主義の信仰が背景にあります。ですから,死ぬことを恐れてはいません。それどころか,聖人になる道でもあるのですから。

 ですから,武器のないパレスチナの一般市民は,石を投げて抵抗しているのです。つまり,丸腰の市民相手にイスラエル軍はやりたい放題です。インターネット上を流れている外国の新聞社の写真をみると,無抵抗の家族に銃口を向けた写真とか,たった一人の子どもに銃口を向けているイスラエル軍の兵士の写真とか,もっと酷い,ここに書くことさえはばかられるような殺人行為の現場写真まで,無数に公開されています。

 これはもはや戦争でも戦闘でもありません。単なる,無差別の殺人行為です。しかも,イスラエル軍のこの殺人行為が,アメリカに支援されているという事実を無視してはなりません。アメリカが支援するということは,集団的自衛権を主張する日本も同じ立場に立つことになります。このことを日本の主要メディアは熟知しているはずですので,ときおり,おざなりな情報を流す程度でごまかしています。そのおざなりな情報だけを受けとって,それをそのまま信じている人たちは,「どっちもどっちだ」という立場をとることになります。

 これはイスラエルのプロパガンダの勝利です。パレスチナのハマスがさきに手を出したので,われわれは応戦しているにすぎない,とするイスラエル軍のプロパガンダです。そして,われわれは正当防衛をしているだけだ,と。それが,1対100,あるいは,1対500,という死者の数であっても,です。こんなことを国際社会が許すはずもありません。

 ここにきてヨーロッパ諸国が一斉にイスラエルの暴挙に対して批判的な態度をとるようになりました。これが,またまたやっかいなことにキリスト教文化圏とユダヤ教との対立という構造を生みだすことになっています。とうとう,ユダヤ教,キリスト教,イスラム教の一神教同士の「3兄弟」の対立抗争という図式が立ち現れることになってきます。となると,こんどは全世界に広がっている,しかも,もっとも人口の多いイスラム教信者たちが黙ってはいません。もう,すでに水面下ではそういう動きがあるとも聞いています。となると,とんでもないことがそのさきには待ち受けている,ということになります。

 集団的自衛権を主張する日本も,完全に,その図式のなかに巻き込まれていくことになるのは必定です。いまはじっと我慢している全世界のイスラム教徒の,こんごの動向が気がかりです。同朋たちが,こんな無差別殺人行為にさらされている実態をいつまでも黙って見過ごすわけにはいかないでしょう。

 こうなってきますと,「どっちもどっちだ」などとノー天気なことを言っている場合ではなくなってきます。火の粉がわが身にふりかかる,そういう事態が目の前に迫っている,そういう自覚こそがいまわたしたちにもっとも求められていることではないか,とわたしは考えています。

 長くなってしまいました。この続きはまた機会をみて書いてみたいと思います。
 今日のところはここまで。
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