2014年8月14日木曜日

戦争の足音と共に,69回目の「8月15日」がやってくる。

 わたしの耳には遠くからトルコ行進曲が聞こえてきます。まだ,その足音は遠くて小さい音でしかありません。が,少しずつ大きくなってくるように聞こえます。最近は老人性の難聴もあって,周囲の音が次第に小さくなっていくというのに,やけに戦争の足音だけは徐々に,徐々に,大きくなってくるように聞こえます。

 まもなく戦後69回目の「8月15日」を迎えます。最初の「8月15日」はわたしが国民学校(小学校とは呼ばなかった)2年生のとき。空襲で焼け出されて疎開していた母の実家の寺の本堂の前の広庭の木陰でいとこたちと遊んでいました。真っ青に晴れた空と強烈な日差しはいまでも記憶に鮮明です。子どもの記憶としては,油蝉の鳴き声だけが響きわたっていて,でもあたりは静謐そのもの。まるで,時間が静止していたかのような,まさに永遠の時間のなかで遊びに熱中していました。

 そんなとき,庫裡の中から「みんな家のなかに入りなさい」という声がしました。だれの声であったかは記憶がありません。なかに入ると大人たちが全員揃っていて神妙な顔をして立っていました。庫裡の太い大黒柱の近くにラジオがあって,そのラジオを取り囲むようにして,だれもことばを交わすことなく立っていました。そして,だれ言うともなく「これから大事な放送がはじまるから,じっとして聞きなさい」と言う。

 正午の時間だったと記憶します。玉音放送のはじまりでした。雑音が多く,表浜の大きな波が寄せては返すように,大きくうねっているように聞こえました。なにを言っているのかは,子どもの耳にはまったく理解できませんでした。でも,周囲の緊張感に圧倒されて,身動きひとつしないでじっと立っていました。終わると,これもだれかが「戦争が終わった」とぽつんと言いました。たぶん,大伯父だったように思います。その瞬間,子どもごころにまっさきに浮かんだことは「これで殺されなくて済む」,というものでした。

 愛知県の渥美半島にも,毎日のように艦砲射撃の音が響き,B29が上空高く飛び交い,ときには艦載機が低空飛行で射撃することもありました。そのつど空襲警報がでて,あわてて防空壕のなかに飛び込み,息をひそめて,じっとしていました。その間,ずっと「殺される」という「死」の恐怖に怯えていました。なによりも恐ろしいことでした。そんな日常的な恐怖から解き放たれたのだという安堵感はいまも忘れてはいません。

 毎年,「8月15日」を迎えるたびに,あの日のことを思い出しています。そして,ことしはとうとう69回目の「8月15日」を迎えようとしています。しかも,ことしの「8月15日」はいつもとはまるで違う,リアリティをともなった恐怖,というお土産付きです。

 正直に書いておきましょう。すでに手遅れではないか,と。もはや引き返すことのできないところまできてしまっている,と。去年の「8月15日」は,なんともいやな雰囲気になってきたなぁ,という程度でした。が,このたった一年の間に,事態は急変してしまって,「もはや手遅れ」ではないかという段階にきてしまっています。こんなところまでくるとは,夢にも思っていませんでした。

 しかし,残念なことに政府自民党はトチ狂ったように暴走をはじめ,憲法9条をねじ曲げてまでして閣議決定をし,集団的自衛権の行使容認を合法化しようとしています。もはや,この流れを止める手立ては国民の多くがこの暴挙に気づく以外にはありません。ところが,その頼みの国民が,国家権力によってほとんど掌握されてしまった報道機関の情報操作に乗せられて,戦争に備えることは必要だ,と考えはじめています。そして,その情報操作はじつに巧妙で,ついには地方自治体までもが国民のことは無視して,国家権力の前で自発的隷従の姿勢をとりはじめています。

 これ以上のことはここでは割愛します。
 ことしの「8月15日」は惨憺たる思いで迎えなくてはならない,というこの悲劇の前でわたしは茫然自失の状態です。さて,この難局をどのようにして切り抜けるか,ことしの「8月15日」を軸にして,しっかりと考えてみたいと思います。当面の課題はフクシマとオキナワです。ここが天王山。日本の将来の命運がかかっている,と。

 69年前の,あの「死」の恐怖から解放された,あの安堵感を肝に銘じて,みずからの,これからの言動について考えをこらしてみたいと・・・・。

 トルコ行進曲が目の前に接近してくることなく,一足飛びに遠ざかっていくことを念じつつ・・・。
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