2014年9月4日木曜日

延長戦50回の「死闘」を経て得たもの,それは人間的成長,リスペクト,思いやりの心,そして生涯の宝物。

 延長戦50回を戦い抜いた崇徳高校と中京高校の選手たち,およびその選手たちを支えた関係者各位にこころからの敬意を表したいと思います。安易なポピュリストたちが,レベルの低い同情論を楯にしてなにかと難癖をつけていますが,かれらには延長戦50回の「死闘」を耐え抜くことの本質がなにもわかっていないだけのこと。

 今日(9月4日)の東京新聞朝刊一面に囲みの記事が載っていて,そうなんだよな,と独り言をいいながら涙しました。その記事は下のとおりです。


 中京高校に惜しくも負けてしまった崇徳高校のチームが,決勝戦には中京高校の応援に駆けつけ,「優勝だ」「頑張れ」と声援を送ってくれた,その光景が忘れられないと中京高校のキャプテン後藤敦也君。優勝が決まったあと,「かれらや広島のためになにができるか」と考え,募金を思いついたとのこと。そして,兵庫からの帰りのバスの中でチーム・メイトに提案をした,といいます。そして「みんな,同じことを考えていたと思う」,と。

 ここでもう,ぐっときてしまって,涙。監督が「人間としての成長を感じます」との談話で,また,涙。集めた義援金は崇徳高校をとおして被災地に送られる。後藤主将は「ライバルを超えた仲間」宛に手紙を書いて送る,という。ここでまた,仕上げの涙。

 いいなぁ,と独り言。高校野球は一戦,一戦,チャンピオンシップを目指して闘うたびに選手たちは見違えるほど成長する,とよく聞きます。それが,記録に残る50回もの延長戦を闘ったあとでは,まるで別人になっているはずです。このことの意味をしっかりと噛みしめるべきだと思います。これぞ,なによりの「教育」。

 これが,仮に,9回を闘ってあっさり勝負がついていたら,負けたチームのために「なにかしてあげたい」という気持は起こらなかったでしょう。しかし,50回もの延長戦を闘うと,もはや,勝ち負けを超越したお互いの「リスペクト」の感情が色濃く浮かび上がってくるのだ,と思います。つまり,そこにはチームとしての優劣はつけられない世界,あとは神頼みのような世界に限りなく接近していくのだろう,とわたしは考えています。

 これが「死闘」を経たのちに到達する世界なのだろう,と。自分たちの能力の限界を超え出てしまうような体験だけが,人間を神に近い世界に誘導するのだろう,と。こういう体験が高校生の意識を大きく変化させていきます。その結果が,相手チームに寄せる「リスペクト」であり,思いやりの心であり,やがて「贈与」へと行動を起こすことになるのでしょう。この変化はたいへんなものだと思います。「人間的成長」などという単純な表現では済まされない,密度の濃い,衝撃的なインパクトをもって選手たち一人ひとりに迫ってくる,スーパー・パワーではないかと思います。

 そして,この延長戦「50回」を闘い抜いた体験は一生の宝物となるでしょう。それはなにものにも替えがたい大事な,大事な宝物になるでしょう。そして,両校の選手たちは,この体験を誇りに思って,堂々と社会の王道を生きていくに違いありません。それが「死闘」ののちに授けられる,神さまからの贈り物です。

 崇徳,中京の両校の選手たちに心からのエールを送りたいと思います。久しぶりの涙が,わたしのこころのわだかまりまで綺麗に洗い流してくれました。この贈与にも感謝。

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