2014年9月29日月曜日

第86回・ISC21・9月犬山例会から戻りました。内容のある素晴らしい例会となりました。

 第86回・ISC21・9月犬山例会が,船井廣則さんの主宰で開催されました。参加者の人数はいつもよりは少なかったですが,議論の内容はいつもにもまして充実したものとなり,レベルの高いところでの議論となりました。わたしにとっては印象に残るいい例会だったと思います。

 日時:2014年9月27日(土)13:30より。
 場所:名古屋経済大学3号館3F第一会議室。
 プログラム:
 
  林 郁子:ソフトテニスの名づけの問題
  菅井京子:『ドイツ体操』(Deutsche Gymnastik)における動きのゲシュタルトゥング  (Bewegungsgestaltung)について──O.F.ボルノーの「課題としてのゲシュタルトゥング(Gestaltung)を手掛かりにして
  船井廣則:再びスポーツ史叙述について
  稲垣正浩:近代アカデミズムの功罪について──スポーツ史研究にみるブートストラップ

 直前になって発表者のひとりが欠席ということになり,突然のプログラムの組み直しがなされたのですが,それをカバーするにあまりある素晴らしい発表が,急遽,組み込まれました。それができてしまうところが,この研究会の凄いところだと思います。つまり,だれもが,いつでも発表できる積み上げができている,ということです。こんな素晴らしい,実力者ばかりの集まる研究会はそんなにはないなぁ,と自画自賛したくなってしまいます。

 林さんの発表は,日本にテニスが伝来し,それが普及するプロセスで,テニスと呼ばれたり,庭球と呼ばれたり,あるいは,硬式テニス/庭球,軟式テニス/庭球,ロウンテニス,ソフトテニス,などとそれぞれの時代に意識的にも無意識的にも,さまざまな名づけが行われていて,その実態は意外と明らかにはなっていない。それどころか,間違った認識がいつのまにか定説となってしまって一人歩きをしている。この誤った定説を糺すための新たな資料を蒐集し,それらに基づいて,それぞれの「名づけ」のもとで行われたテニスの実態(硬式なのか,軟式なのか)を明らかにする,というきわめて意欲的な発表でした。その視点は,ひとつは用いられたボール(ゴム・ボールか,布を被せたボールか)の種類によって,もうひとつはルール(サーヴィスの方法,ダブルスの組み方,など)からの分析でした。ベンヤミンや多木浩二さんのことばに置き換えれば「歴史を逆撫でする」,あるいは「瓦礫の山のなかから真実を導きだす」,というみごとな研究のレベルを提示するものでした。このあとのまとめが愉しみです。

 菅井さんの発表は,学会発表の抄録をもとに,いま,最大の難関だと考えている「ゲシュタルトゥング」(Gestaltung)をどのように考えればいいのか,そして,とりわけ,「動きのゲシュタルトゥング」(Bewegungsgestaltung)をどのように理解し,捉えればいいのか,という問題提起がなされました。この問題は,たとえば,「ゲシュタルト心理学」とか「ゲシュタルト・クライス」などというように,日本語には翻訳できないドイツ語・Gestaltが大きな壁になっています。しかも,Gestalt, gestalten, Gestaltung, というように使い分けがなされています。それをさらに Bewegung(運動,動き)のゲシュタルトゥング(Gestaltung)となると,いったい,どういうことを意味しているのか,というのが議論の焦点となりました。こんにち,わたしたちが理解しているK.マイネルの「運動学」(Bewegungslehre)の知見にもとづけば,粗形成(Grobformung)から精形成(Feinformung)へと,動きをブラッシュアップしていくプロセスが一番近いのかな,というところに落ち着きました。しかし,それだけでは充分ではありません。このような議論が立ち上がるドイツの192,30年代の,思想・哲学上の議論がその背景にあるからです。その根は「生の哲学」(Lebensphilosophie)にあります。そことの結びつきを明らかにすることが,最終的な研究課題として残ることになりそうです。今回は,その初歩の入口の議論として,とりあえず,問題提起をするにとどめるのがいいのでは・・・・,というような議論がありました。

 船井さんのプレゼンは,昨年のスポーツ史学会のシンボジストとして「取り扱えなかったこと」(時間的な制約のために)にこだわりをもち続け,いまも,考えつづけていることを,手際よく整理して提示してくれました。よく勉強してるなぁ,と感心するほどの読書量を背景にして,W.ブス(ゲッチンゲン)とG.シュピッツァー(ポツダム)の論争をどのうよに受け止めるか,という問題提起でした。両者の主張の論点を,それぞれに紹介した上で,歴史研究者としての根本的なスタンスの違いを明らかにし,それぞれの功罪を慎重に探る,いかにも船井さんらしい深い読みが展開されました。言ってしまえば,ナチス時代と東西ドイツという,世界に類をみない,いわゆる先進国での際立ったスポーツ政策が展開され,その功罪について,「現代」という視点からどのように評価し,断罪していくべきか,を問う歴史研究者としての使命を重視する立場と,そんなことは歴史研究者の仕事ではないとする立場の論争というわけです。「単なる実証主義でも,『歴史=物語』とする相対主義でもない・・・・」そういう歴史をめぐる根源的な問いにまで触手が伸びていくことになります。この問題は,一度,プレゼンを聞いたくらいでは,そうそうやすやすと問題の本質には接近できそうにはありません。ぜひとも,文章化してもらって,何回も何回も熟読した上で,再度,議論すべき重要なテーマだと受け止めました。いまもつづく歴史学全体に漂う沈滞ぶりは,このあたりの議論がネックになり,暗礁に乗り上げてしまったからではないか,とわたしは推測しています。船井さんの読書歴を,謙虚にたどりながら,わたしたちもまっとうな議論ができる準備をしなくてはならない,と深く反省した次第です。

 というところで,時間切れとなり,わたしのプレゼンは夜の部でやることになりました。アルコールの勢いを借りながら,午前3時までつづきました。結論は,歴史研究も科学も,言ってしまえばみんな個々人の「思い込み」(立花隆)にすぎないとすれば(脳科学のゆきついた現段階での結論),では,いったい,これまでの歴史とはなにか,スポーツ史とはなにか,というところにたどりつくことになります。それらは,結局のところ「ブートストラップ」(『ほら吹き男爵の冒険』,岩波文庫)にすぎないではないか,と。そのとき,「聖なるものの刻印」というジャン・ピエール・デュピュイの提示した新たなる「知」の地平が忽然と目の前に開けてくる・・・・,というようにして,話は西田幾多郎や道元に流れたり,竹内敏晴に踏み込んでみたり,西谷修の『理性の探求』をはじめとする諸文献のスタンスに及んだり,今福龍太や真島一郎にいたったり,と縦横無尽の議論がつづきました。まあ,言ってしまえば,単なる酔っぱらいの戯れ言にみなさんを引き込んでしまった,罪深き言動にすぎない,理性中心のまじめ一辺倒の近代論理からすれば許されない「悪」を演じてしまったということになります。しかし,もうひとつの視点に立てば,つまりは,わたしの「思い込み」を語ってみた,というにすぎません。近代アカデミズムもそろそろ「かぶく」ということを視野に入れて,原点から考え直さなくてはいけないのではないか,と。

 といったところが研究会のあらましです。もちろん,この集約もまたわたしの「思い込み」にすぎません。一人ひとり,まったく違う印象をもったはずです。それをまた次回の例会でぶつけ合うことができれば,これまた楽しい限りです。

 以上,とりあえず,第86回・ISC21・9月犬山例会のご報告まで。
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