2014年9月2日火曜日

高校野球・延長50回の是非論。安易なポピュリズムからの批判が続出。冗談じゃあない。競技スポーツは死闘です。

 高校野球軟式の全国大会で,中京高校と崇徳高校が延長50回という前代未聞の死闘を繰り広げ,大きな話題になっています。この死闘を,感動したと受け止める派と,とんでもない虐待だと受け止める派と,馬鹿みたいと受け止める派の,三つ巴の議論が渦巻いているようです。あなたはどの派に属しますか。

 わたしは感動派です。理由はかんたん。競技スポーツはすべからく「死闘」です。自分のからだがどうなろうとも,目前の勝利のためには全力で闘うもの,それがチャンピオンシップ・スポーツの真髄です。たとえば,ボクシングを考えてみてください。一定のルールにもとづく「殴り合い」です。つまり,暴力を合理化し,競技スポーツに仕立て上げただけの話です。実態は,鋭いパンチを繰り出して相手をダウンさせることが目的です。ただし,ボクシングが単なる「暴力」にならないように,レフェリーが両者の間にはいってコントロールします。それでもなお,ボクシングは血みどろの「死闘」以外のなにものでもありまはせん。

 野球でも同じです。少年野球でも,チャンピオンシップを賭けた試合となれば,これはもう立派な「死闘」となります。持てる力のすべてを繰り出して,相手を圧倒するために全力でぶつかっていきます。延長線に入っても同じです。あとは,気力と体力の勝負となっていきます。からだがぶっつぶれようとも,そんなことは意に介しません。選手たちは,ここまできたらなにがなんでも勝つこと以外は考えようとはしません。それがまた競技スポーツの醍醐味の一つです。

 しかし,ネットを流れている議論をみるかぎりでは,どうやら「とんでもない虐待だ」という派が優勢のようです。たとえば,尾木ママがブログで「残念,残虐」と批判しています。それに追随するかのような意見がつぎつぎにでてきています。そして,高校生のからだを守るべきだ,これで肩をつぶして野球人生が終わってしまったらだれが責任をとるのか,高校野球は教育の一環だ,というもっともらしい理由をつけて批判しています。

 これらの意見は,競技スポーツのなんたるかを考えない,単なる素人のポピュリズムにすぎません。選手たちが可哀相だ,とりわけ,投手の負担を考えろ,選手生命にかかわる由々しき問題だ,と読者の同情に訴えて,これこそが「正義」だとばかりに主張します。そして,多くの人がこれに同調します。そして,多数を形成します。するとますます自分たちの主張は「正しい」と確信するようになります。そうして,高野連にプレッシャーをかけて,ルールの変更を迫ることになるでしょう。いずれそうなる可能性がなきにしもあらず,という雰囲気を感じます。

 その前例はアメリカにあります。18歳までの投手は「105球」投げたところで交代することがルールで定められています。しかも,「105球」を投げた投手は,つぎの登板まで「4日間」の休養を義務づけています。いかにも合理的で,もっともらしいルールです。しかし,そうなると,どういうことが起きるのでしょうか。

 まず,高校野球の華である甲子園大会の,あの「熱闘」は成立しなくなってしまいます。つまり,エースが一人だけのワンマンチームは,予選からして勝ち上がるチャンスはなくなってしまいます。ましてや,甲子園は「連投も辞さない」日程で試合が展開します。その結果,強豪チームには投手が3人も4人もいて,しかも,その投手たちがそれぞれに野手でもある,という不思議なチームが出始めています。すると,1イニングの間にピッチャーをとっかえひきかえ登場させ,ワンポイント・リリーフなどというプロ野球のような試合が展開されることになります。

 となると,プロ野球なみの,優秀な選手を他県からもスカウトできる財力をもつ高校だけが甲子園に集まってくるようになります。すでに,その傾向は顕著ですが。これはどういうことを意味しているのでしょうか。結論からいえば,高校野球もすでにマネー・ゲームに向かってまっしぐら,ということです。となると,いわゆる公立高校の出番はほとんどなくなってしまいます。ほんの一握りの強豪校と,圧倒的多数の平凡チームの二極分化が起こります。すでに,その傾向は歯止めがきかない状態がつづいています。ということは,「1%の強豪校と99%の弱小校」への分離と定着化,という構図です。この構図,どこかで聞いたことがありませんか。

 金まみれの,金だけが世の中を支配するような社会がどんどん拡大していくことを,あなたは望みますか。この答えはすでにでています。原発がその典型例です。経済原則(このまやかしの原則)が,アメリカを筆頭に世界を席巻しています。日本のアベノミクスもその路線を突っ走っています。景気がよくなれば人間は幸せになれる,というこれぞポピュリズム政治の典型です。ですから,株価の指数だけがアベノミクスの指標となっています。そこには,人間は介在していません。数字だけの世界です。

 でも,日本の圧倒的多数を占めるポピュリストたちは,この嘘だらけのアベノミクスに騙されつづけています。しかし,そのアベノミクスも,たとえばイギリスのFT紙(フィナンシャル・タイムズ)が一面トップで強烈な批判を展開したように,海外ではきわめて評判が悪いようです。ただ,日本のメディアのほとんどがアベ独裁体制に完全にコントロールされてしまっているために,わたしたちが「盲目」にさせられているだけの話です。

 これ以上の詳しい話はここでは割愛させていただきますが,ことほど左様に,日本のポピュリズムは,アメリカン・スタンダードによるグローバリゼーションに歩調を合わせるかのように,日本の社会を支配しつつあります。これは「恐ろしい」ことです。

 延長50回の是非論は,少なくとも,ここまで根を下ろして議論をしてもらいたいものだ,とわたしは考えています。このほかにも,視野に収めなくてはならない視点はいくらでもあります。そうした広い視野に立つ議論が展開することを期待しています。

 繰り返しますが,競技スポーツは「死闘」です。甲子園の高校野球はその典型です。しかも,これは日本に特有の伝統文化の一つです。しかし,すでに,マネー・ゲーム化の方向に大きく動きはじめています。ここに歯止めをかけて,高校生が純粋に「死闘」を繰り広げることのできる時空間を確保することの意味について,わたしたちはもっともっと深く考える必要がある,と思います。伊達や酔狂で,高校生の甲子園野球がここまでの存在を示すことになったわけではありません。そこには,深い深い意味が隠されています。そこのところを考えること。

 くれぐれも安易なポピュリズムに流されないように。
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